貧しき人々の群」を書いたときよりは苦しんでいる。だからあんなに泣きはしない。そう雑作なく涙をこぼしてはいられない。けれども、私の心はこういうことに逢うとハッと撃たれて動けなくなる、ほんとに動けなくなる――。
 やや暫く経ってから、私は足音を忍ばすようにして自分の部屋へ上って行った。二階を昇りきって、三階へ掛ろうとするところに新らしく左右へ渡された板には“Please do not come up unless you are responsible for any damage!”と書いてある。私は暫く立ってその文字を見つめた。
 広い階子段に掛った板は、ただ見たときよりもずうっと細く華奢《きゃしゃ》に見える。ただ単純なノートに見える。それが今の私の気分にとってはせめてもの心ゆかせなのである。
 そうっと鐶《わ》を脱《はず》して自分の体をこちらに置くと、脱した鐶をまた音のしないようにもとに戻して、私は殆ど忍びこむようにして自分の部屋に腰を下したのである。



底本:「宮本百合子全集 第一巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年4月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月
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