思わず手を止めて彼を見た。
「こっちを使う? こっちの何を使うというの?」
「さあ何だか――たぶん顔を洗うところででもあるでしょう」
「それじゃあ困るじゃあありませんか、どこの誰れか分らない者に、そう勝手に出入りされては不安心で困るわ」
「困りますとも、第一不用心だ。仕方がないな――まあ後で考えましょうよ」
 私はこの思いがけない報告で、少なからず不愉快な思いをさせられた。誰でも知っている通りこちらの習慣として、まるで関係のない他人の専用している部屋へは、たとい、戸一つの境でも無断で出入りする者はない。習慣、非習慣は第二の問題として、下の女が、借手《かりて》を少しでも魅する材料として、全然下とは没交渉な私の部屋まで勝手に自分の範囲に引入れた心持が厭《いや》である。
 たぶん一時の出放題であろうとは思っても、気まずさは決して減じない。彼女はやっぱり、ああどうせユダヤ人だから仕方がない! という、ありきたりの結論にまで私を滑りこませようとするのだろうか。
 私は知らず知らず、上の小部屋で飛んで行く雲を眺めながら、彼女の息子も未来の大音楽家と夢想して、独りで好い心持になっていた自分を思い出さ
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