れて、月を迎えるような笛の旋律に聴き惚れるときなどには、私の心はまるで我を忘れたように「彼等」のうちに溶けこんでしまう。生命の萌芽のような少年を透して、不思議な美と力とに埋れた民族がものをいう。そして私は真剣になって、自分の仕事を考えるときと同様の歓びと謙譲な祈願に心を満たされながら、彼等の仕事を想うのである。
 私は子供の名も親の名も知らない。けれどもそれでよい。私はただ、こうやって偶然廻り合わせた地上の一点で、彼もまた何か「よきもの」の所有者であって欲しいという希望と並び立った想像が私の心を厳粛にするのである。
 よき人の産む仕事は、少量でも貴い、その一粒の貴さに対して人は謙譲でなければならない。朗らかに眼を見張る謙譲を持つべきではないのか。
 自白すれば、私はときどき自分の仕事と彼の仕事たるべきこととを混同して感動したこともあるに違いない。また、彼等の悲劇的な連想と、私のうちにある芝居が、私の今の境遇を動機として絢爛《けんらん》たる戯曲を幻に描いたのかも知れない。旅に暮す者は、旅に逢う小鳥さえも忘れかねる場合がある。
 漠然としてはいても、量り知れない深味で心にしみている郷愁や、その齎《もたら》すいろいろな恂情的気分を取りのけたとしても、私が彼のユダヤ人の一族に向けた好意は決して僅かなものではなかっただろう。
 かようにして、私の心のうちには普通彼等が致されるような些の反感もなければ、侮蔑もなかった。好意に満ちた傍観が、彼等と私との間に見えない気分の流動を与えていたのである。

        三

 朝遅く起きて散歩に出掛けようとする入口などで、私はよくユダヤ人の母親に逢った。
 ふかふかな黒い髪を高く結び上げて、丸顔へいつも白粉をつけている若い母親は、娘と殆ど姉妹のように見える。
 ややいかつい、それでいて甘ったるい肉感的な容貌を持つ彼女は、いつも逢う毎に心持顔を左に傾けながら、莞爾《にこり》とする。それを見ると、私も難しい顔をしていられなくなって、同じような微笑を返しながら頭で挨拶をする。そして、行く方へ各自の途を別れる。ときには、よく肥った丸まっちい四肢を機械のように振りまわして、窓下の芝生《ローン》で湖から飛んで来る蜉蝣《かげろう》を追っかけている小娘に会うこともある。
 けれども私達の交際は、決してそれ以上に発展する希望はなかった。少くとも私の方にその気がなかった。いかに彼等に好意を持ってはいても、「年中桜が咲く島」の女として、子供がバチを拈《ひね》るように玩具にされることは堪らない。彼等の好奇心は、何の悪意がなくとも、ときには不愉快を圧えきれなくなるほど濃厚である。ユダヤ人だからではない、すべてこちらのあまり教養のない人間はそうなのである。
 それ故私の無干渉主義は、立ち入った一度の交渉なしに今日まで進んで来たのである。
 ところがちょうど昨夜、もうかれこれ十時近い頃であったろう、二階へ誰か女が訪ねて来たらしい様子がした。何かしきりに相談でもしていると見えて、開け放した階子口《はしごぐち》の戸を通して聞える声は、珍らしく真面目である。けれども、何を話しているのか内容は分らない。ただ空気を截《き》って虫が飛ぶように、ヒッシュヒッシュという力強い語尾だけが、連続した断音となって鼓膜を打つのである。
 かなり男性的な抑揚をぼんやりと耳にしながら、仕事を仕続けていると、前から聴いていたのだろうGが突然、
「おや、あの人達はまた誰かに部屋を貸すんですね」
と云った。
 彼の拾い集めた断片によると、下のユダヤ人の母親は、借りた二階のどの部屋かを、また今来ている女に貸す相談をしているのだそうだ。私はそれを聞くと、利口なものだなと思わずにはいられなかった。
 お爺さんお婆さんは、新来の彼女等にいくらでも高価《たか》く自分達の部屋部屋を明けわたして利益を得ようとする。借りた彼女は、また借りものの一部分でもを又貸しして、払う金を浮かばせようとする。まるで鼬《いたち》ごっこのようである。思いつかないような遣繰りをする周密さには驚ろかされるけれども、そんなにもセカセカと気を配らなければ生きても行かれない世の中なのかという考えは、心を暗くする。何かしきりに耳を傾けている彼に、私は独言《ひとりごと》のように呟いた。
「そんなに敏捷《スマート》に立ち廻らなければ暮せないのかしら――」
「さあ――……」
 すぐ後を続けて何か云おうとした彼は、急に不愉快な表情をしていずまいをなおした。
「御覧なさい、あんなことをいうからユダヤ人は人に嫌われるんだ」
「何が?」
「下の女がね、上はゆっくりしているのだから若しこっちの工合が悪かったら、いくらでも三階を使えば好いなどと云っているんです」
 今まで漫然と筆を運びながら聴き流していた私は、この言葉で
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