思わず手を止めて彼を見た。
「こっちを使う? こっちの何を使うというの?」
「さあ何だか――たぶん顔を洗うところででもあるでしょう」
「それじゃあ困るじゃあありませんか、どこの誰れか分らない者に、そう勝手に出入りされては不安心で困るわ」
「困りますとも、第一不用心だ。仕方がないな――まあ後で考えましょうよ」
私はこの思いがけない報告で、少なからず不愉快な思いをさせられた。誰でも知っている通りこちらの習慣として、まるで関係のない他人の専用している部屋へは、たとい、戸一つの境でも無断で出入りする者はない。習慣、非習慣は第二の問題として、下の女が、借手《かりて》を少しでも魅する材料として、全然下とは没交渉な私の部屋まで勝手に自分の範囲に引入れた心持が厭《いや》である。
たぶん一時の出放題であろうとは思っても、気まずさは決して減じない。彼女はやっぱり、ああどうせユダヤ人だから仕方がない! という、ありきたりの結論にまで私を滑りこませようとするのだろうか。
私は知らず知らず、上の小部屋で飛んで行く雲を眺めながら、彼女の息子も未来の大音楽家と夢想して、独りで好い心持になっていた自分を思い出さずにはいられなかった。私はあんなに好意をもって空想していて上げたのではないか、と云ったところで彼女は微笑しながら、それはあなたの御勝手でございますと云うだろう、自分は喜劇役者であり過ぎる。お人好しであり過ぎる――。
けれども、そのお人好しを私は決して拒絶しようとは思わなかった。自分は偽《だま》されても正直者の方がよい。疑い合い、索《さぐ》り合い要心し合って暮す人生が、どうして歓びへの第一歩であろう、そう偽されても正直者の方がよい――がしかし、私の心持は平静ではない。晴朗さがかき乱される。多少ながらそれを自覚することが、また一層自分自身に苦々しいのである。
私は渋い顔をして床に就いた。
四
眠りに就くまで苦しい気分が去らなかった昨夜のことは、一夜経って目覚めるとともに、どうかしてすっかり忘れていた。
まして今日は勉強にこの上もない天気である。ギラギラし勝ちな日光は柔かく薄雲に包まれて、澄み渡った湖面が和《なご》やかな藍を溶かしている。新鮮な目覚めるような微風が、爽《さわやか》に楡の梢を揺らめかせては、小部屋一杯に溌溂《はつらつ》とした大気を漲らせる。お気に入りの涼味と穏やかな陰影とが、散らばった紙や書籍に優しく絡んで自分を待っていてくれたのを見ると、どんなに私は悦ぶだろう、八月の始めに故国へ帰る人に託そうとする原稿は、まだ沢山溜っている。それだのに激しく暑かったり、大風が吹いたりして気分の纏らない日はほんとに辛い。が、この、今日のような天気! それは全く素晴らしい。私は嬉しまぎれに歌を唱いながら体を拭いたり髪を上げたりした。そして子供のような晴々した気分で下に御飯を食べに下りた。第一階目に私の食堂があるのである。
香りの好い珈琲《コーヒー》を啜《すす》りながら、私はいつか仕事のことを考えていた。おいしいトーストを食べながらもそのことを考えた。殆ど口では云い表わせない、あの集注した真剣な、緊張した気分に満たされながら、私はまるで頭のうちに浮んだ仕事を噛むで味うように御飯を食べ始めたのである。
ところが、もう少しでそれもお仕舞いになろうとしたとき、一箇処に凝集していた私の注意はふと妙な物音に、引きつけられた。
人の足音である。明かに大人の足音である。それがコトリ、コトリと忍びやかに上の部屋へ登って行く――。私は思わずオヤと云って立ち上った。なぜならば、この部屋の傍を通って行く階段は、私ほか使わないものなのである。私ほか使わないのだから、従って、私の部屋へ用事のある者以外に決してここを登って行くはずはないということになる。二階の人達の使うのは、それとは反対の側にちゃんと付いているのである。
耳を欹《そばだ》てて怪しんでいる私の頭の上を、人は依然としてカタリコトリと動いて行く――、瞬間に昨夜のことを思い出した私の目前には、明け放して来た寝室や、紙の散らばった机の上の様子が電光のように通り過ぎた。いつの間にか唇を噛んで下を向ていた頭を持上げると、私は大急ぎで戸外にいる彼のところまで出かけて行った。
「グランパ、私の部屋へ誰か登って行く」なぜだか分らないが、私の唇からはひとりでに囁くような小さい声が出た。
あまり小さい声だったので聞えなかったのだろう。
「え?」と云いながら振向く彼の顔の真正面で、私は「誰か部屋へ行くことよ!」と叱るようにムキな声を出した。
変に緊張して強直した感じが体中に漲って、私を自由に歩かせない。卓子《テーブル》の前まで戻って来ると、世界が急に真黒になりはてたように、何にも彼にもに気がなくなった私は
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