の家具がすっかり位置を換えて、まるで別なところのように見える窓際で、あの若い母親が例の小唄まじりで編物をしている。その足もとに足を組んで何か見ている小娘の姿まで、瞬間の眼に写ったすべての光景は、まるで想像もできないほど変化している。たぶん私が上で、故国から来た新聞でも読んでいる間に、下では住む人間の「なかみ」がすっかり入れ換りになってしまったのであろう。
 私は思わず「まあ」と云って階子《はしご》を馳け下りた。意外である。全く思いがけない。どうしてそんなに速く引越しができたのだろう。
 荷物を運ぶ様子もなく、人の出入りする気勢《けはい》もなくて住む人間は換っている――。ほんとに意外である。意外であると同時にまた恐ろしく滑稽である。ちょうど何か小さい羽虫が、どこかの畑に転っている西瓜の巣を、目瞬きする間に引き払って、隣りの南瓜《かぼちゃ》に引越したような単純な可愛さがある。世の中に、こんなにも素早い引越しをする者がまたとあるだろうか。
 いつもブタブタなオバーオールを着て、腕を捲《まく》り上げたお婆さんの命令のままに、パイプを銜《くわ》えてのそのそと動いていたお爺さんを想うとき、この想像は一段と光彩を増すのである。
 私共は珍らしく理も非もなく長閑《のどか》な心持になって虫のお引越を話し合った。虫のお引越は決して侮蔑を含んだ言葉ではない。虫の飛ぶように素直に、虫のように安んじて動いた素早さの愛称である。
 私共にとりて唯一の心配は、来週から誰に洗濯をしてもらったら好いだろうということであった。

        二

 急な引越しをして姿を消したお婆さんは、ミセス・ロッスといった。
 たぶんアメリカ生れの家族であろう、比較的悠然と構えているお爺さんを、いつも急き立てて働いているミセス・ロッスは、ずいぶんの遣り手でありながら割合に上品な、すれない気分の人らしかった。
 二人の子供達はいつもこざっぱりとした着物を着せられて、上の女の子などは、父親と釣合わないほど、またアメリカの子供らしくないほど、内気な、笑わない性質である。いつも灰色の小猫が、背中を丸めて蹲《うずくま》っているベランダに、真白い着物を着て、紫のリボンで蒼白い額を捲いて坐っている。
 少しきまりが悪いと、頬ではなく、その日に焼けた頸を所斑に赤らめる母親は、独りの娘を珠のように労《いたわ》って、夕方涼風が立つと、並木の下をゆるゆると威厳をもって散歩する小娘の傍に引添って、満足したお伴のように随《つ》いて行くし、私にとっては、どうしても悪意の持ちようのない善良な愛すべき一家であったのである。
 けれども、今度入れ換って住むようになったのは土地の者でもなければ、近在のものでもない、ユダヤ人である。博愛とか、人道主義とかいう呼び声は地に満ちていながら、黒人に偏見を捨てられない、米国人の殆どすべてから Wandering Jew で排斥されるユダヤ人なのである。
 若し商業上の手段が卑劣で守銭奴だという方面の観察のみを強調して行けば、もちろん日常の生活にも狡猾で利己主義で、いわゆる鼻曲りであるという結論に導かれるかも知れない。
 けれども、それだけでは公正に、彼等民族のすべての方面に向って下されるべき批判ではない。ただ一面である。国家的悲運に陥った或る民族の径路は複雑でなければならない。私にとってユダヤ人という名は、単に興味からいっても、豊富な内容を盛った劇的想像なのである。
 彼等は確かに金嚢とキリストとを引換えた。けれども、彼等が総掛りで殺しにかかっても、なお殺しきれなかったキリスト自身を生んだ民族である。私は彼等のうちに在る「燃えざる火」を忘れることはできない。いつかどこかで、熾《さか》んに火花を散らして照り輝くべき焔を待つ「心」を棄てられない。また実際、世界中に離散して、殆ど地球のコスモポリタンになっている彼等のうちからは特に素晴らしい霊が発光する。人類が跪拝《きはい》する天才の記録のうちに、彼等の血統は決してニューヨークの女達が顰《しか》める眉の侮蔑を受けてはいない。私は自分に待っている通りに、人にも待っている。彼等にも待っているのである。
 それだから下に来たのがユダヤ人だと分ると、私は一層好意に満ちた牽引を覚えた。まして一番上の十二三の男の子が、声は美しくないが、かなり綺麗《きれい》に笛を吹いたり、毎朝ヴァイオリンの稽古をしていることなどは、知らず知らずに私の空想を一層光明と美とに、満されたものにする。
 仕事の疲れた合間合間に、霞むような瞳を繁った楡の梢越しの新鮮な水面に休めながら、私はともすると、ユダヤ人の息子のことを考える。風の薫《かんば》しい夕方、紫色に見える穏やかな湖に軽々と恰好のよい舳《みよし》を浮かせて、いかにも典雅に水を滑る軽舸《カヌー》の律動につ
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