と、並木の下をゆるゆると威厳をもって散歩する小娘の傍に引添って、満足したお伴のように随《つ》いて行くし、私にとっては、どうしても悪意の持ちようのない善良な愛すべき一家であったのである。
 けれども、今度入れ換って住むようになったのは土地の者でもなければ、近在のものでもない、ユダヤ人である。博愛とか、人道主義とかいう呼び声は地に満ちていながら、黒人に偏見を捨てられない、米国人の殆どすべてから Wandering Jew で排斥されるユダヤ人なのである。
 若し商業上の手段が卑劣で守銭奴だという方面の観察のみを強調して行けば、もちろん日常の生活にも狡猾で利己主義で、いわゆる鼻曲りであるという結論に導かれるかも知れない。
 けれども、それだけでは公正に、彼等民族のすべての方面に向って下されるべき批判ではない。ただ一面である。国家的悲運に陥った或る民族の径路は複雑でなければならない。私にとってユダヤ人という名は、単に興味からいっても、豊富な内容を盛った劇的想像なのである。
 彼等は確かに金嚢とキリストとを引換えた。けれども、彼等が総掛りで殺しにかかっても、なお殺しきれなかったキリスト自身を生んだ民族である。私は彼等のうちに在る「燃えざる火」を忘れることはできない。いつかどこかで、熾《さか》んに火花を散らして照り輝くべき焔を待つ「心」を棄てられない。また実際、世界中に離散して、殆ど地球のコスモポリタンになっている彼等のうちからは特に素晴らしい霊が発光する。人類が跪拝《きはい》する天才の記録のうちに、彼等の血統は決してニューヨークの女達が顰《しか》める眉の侮蔑を受けてはいない。私は自分に待っている通りに、人にも待っている。彼等にも待っているのである。
 それだから下に来たのがユダヤ人だと分ると、私は一層好意に満ちた牽引を覚えた。まして一番上の十二三の男の子が、声は美しくないが、かなり綺麗《きれい》に笛を吹いたり、毎朝ヴァイオリンの稽古をしていることなどは、知らず知らずに私の空想を一層光明と美とに、満されたものにする。
 仕事の疲れた合間合間に、霞むような瞳を繁った楡の梢越しの新鮮な水面に休めながら、私はともすると、ユダヤ人の息子のことを考える。風の薫《かんば》しい夕方、紫色に見える穏やかな湖に軽々と恰好のよい舳《みよし》を浮かせて、いかにも典雅に水を滑る軽舸《カヌー》の律動につ
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