の指導的技術者というものが、未だ負うている歴史の若さを深く感じました。
 座談会に於て、演技が主に語られるのであったならばもっとわれわれの芸術が持っている歴史的な、社会的な制約とそれを破るための道として必要な、よりひろい外の世界との批判的な接触にもふれられたら、一般の俳優も読者も得るところは多かったであろうと思います。
 芸に関する問題としても、具体的にあすこで深められたものがあったとはいえなかったと思います。例えば、岸田国士等によって言われている、演劇アカデミイの問題で村山知義氏は、基本的な技術を与えることでは、アカデミイも新しい演劇のために何物かを与えるであろうがと言っておられる。その基本的技術というのも、果してブルジョア的な新劇と、私たちが将来に求めている新しい演劇というものとの間で全く同じであり得るでしょうか。例えば、発声法や体操などで見ても、不自然な芝居声の要求され、とったり[#「とったり」に傍点]がいる芝居の伝統と、私たちのいう新しい芝居とはちがうのであるから。
 又、俳優の演技を小さくしていることと、舞台の狭く小さいこととは、切り離せない関係にあって、新協がこの困難な問題
前へ 次へ
全8ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング