の指導的技術者というものが、未だ負うている歴史の若さを深く感じました。
 座談会に於て、演技が主に語られるのであったならばもっとわれわれの芸術が持っている歴史的な、社会的な制約とそれを破るための道として必要な、よりひろい外の世界との批判的な接触にもふれられたら、一般の俳優も読者も得るところは多かったであろうと思います。
 芸に関する問題としても、具体的にあすこで深められたものがあったとはいえなかったと思います。例えば、岸田国士等によって言われている、演劇アカデミイの問題で村山知義氏は、基本的な技術を与えることでは、アカデミイも新しい演劇のために何物かを与えるであろうがと言っておられる。その基本的技術というのも、果してブルジョア的な新劇と、私たちが将来に求めている新しい演劇というものとの間で全く同じであり得るでしょうか。例えば、発声法や体操などで見ても、不自然な芝居声の要求され、とったり[#「とったり」に傍点]がいる芝居の伝統と、私たちのいう新しい芝居とはちがうのであるから。
 又、俳優の演技を小さくしていることと、舞台の狭く小さいこととは、切り離せない関係にあって、新協がこの困難な問題を克服して行かなければならない過程は実に複雑多難であります。芸を愛するものの関心は、ここまで実際問題としてはひろがって来る。芝居によって啓蒙してやる対象としての観客(滝沢)と、生きた表現で思いがけぬことも言う素人批評家としての職場の人(同)という観客に対する新協の俳優の特徴ある態度の「+」と「−」の面をも十分に自ら含味されなければならないでしょう。
 新協の俳優が、他のどの劇団にもない歴史的な立場と任務とを持っていることは明らかであり、その自覚から各人が人及び芸術家として、日本の過去の如何なる名優も持たなかった希望と誇りとを持つことは当然です。けれども、その新しい歴史性の自覚は、それが強ければ強いだけ芝居そのものの新しい芸術価値として、具体的にこの社会へ提出され、大衆の生活の中に入り込まなければならないと思われます。
 新協の存在の価値と業績とは過去十数年の間に値打の高い発展をとげて来ているが、ますます困難を加える健康な文化・芸術確保の任務を果すためには、更にひろい客観的関係の中にその活動の質と力とを突きはなして観ることが、成長のために必要なのではないでしょうか。
 私たちの文化と芸術
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