じた批評に対する意見に類似した意見を語っていられる。興味あることは、その滝沢氏にしろ、その生き生きとした言葉というものを具体的に座談会の席上で求められると、われわれには分っているのだが、今ここで概括的に言えるものじゃないと、読者にはもの足りない一種の主観的な態度で言わざるを得ない事情です。
俳優が一つの役を客観的な芸術の価値として創造して行く困難さは容易なものではない、そのことは実に理解されます。一つの端役でさえ、真面目な俳優は一度より二度目の時と、役柄のつかみ方、端役としての必然性の理解の点で成長してゆきます。そういう苦心を感じることの出来ない一面的な批評を、座談会では、望ましくないものと批評されています。これも尤もであると思います。しかし、同じ座談会でシュワイツァの死に方についての批評が話題になった時、宇野重吉氏はそれに対し、ああいうことは前から言われていた、あれ分ってるよ、いろいろ新手を考えているうちにお終いになったと感想を述べています。演技の独自性の評価が強く求められているこの座談会として、そういう問題があの程度の、謂わばむこう意気で過ぎていることが私の注目をひいた次第です。
芸といえば、素朴な印象にこだわるようであるけれども、「群盗」の初日に滝沢氏の演じられた弟の独白の場面で、舞台の一隅に置かれた枝蝋燭立てから一本の燃えているローソクが舞台の上に落ちました。そこは貴族の室内である。弟は陰険奸悪な陰謀者である。彼は一人で室内を行きつ戻りつしながら、古典劇らしく自身の悪計を独白しているのですが、例の舞台の上に落っこって目の前で燃えているローソクには全く目もくれない。その前まで行って足でさわりそうになって、しかもそのローソクを拾おうとしない。観客の目は自然燃えているローソクにとらわれ、どうなることだろうという心配がある。これは素人の見方かもしれないが、もし、滝沢氏が弟の性格を十分人間的につかまえていて、舞台に芸術として生きたリアリティを感じて動いているのであったならばおそらく科白《せりふ》の間にあの人物らしい身のこなしで燃えるローソクを拾い上げ、それを消し、科白の間、身ぶりの間にもとの枝蝋燭立てへ戻し得たのではなかったろうか。ローソクは幕になる迄舞台の上で燃えっぱなしでした。初日でゆとりがなかったといえばそれまででしょうが、私は一人の見物として観ていて、新協
前へ
次へ
全4ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング