なぜここにいるの」
 こんなことも云った。
「そこにいるの誰? おかあさま」
「高橋さんですよ」
「高橋? 僕知らないや、こっちへ来て顔見せて。よ」
 顔を見ても、声を聞いても名を云われても、彼の頭はもうそれを統一して、高橋さんという一人の看護婦の表象を作る能力を失っているとみえて、何度も何度も同じ問答を繰返しているうちに、またスーッと意識は暗くなって来るのである。
 今まで、眼を明いて人の動くにつれて注意を動かしていた彼の顔からは、一つも残らず緊張の影が消えてしまう。
 眼をほそくし、何ともいえない単純な、平和な、眠たい幼子の歌うような声で、“In Happy Moments Day by Day”という、彼の愛唱歌の節ばかりを口吟《くちずさ》み始める。
 その緩やかな、夢見るような声の流れに耳を傾けると、あらゆる拘束や抑圧から解放された、まだ十五の男の子の素直な、単純な心の美点ばかりが、仄白くつつましやかに輝きながら、自分の心のうちに滲《し》み透って来るような心持がした。
 あの夜以来、自分の否定しよう否定しようとしていた予感は、もう予感という言葉を許されないほど歴然としている事実
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