にくわない」と、明かにチブスかも知れないという意味で、重々しく私に囁《ささや》きながらも、その顔にはちっとも当惑したり、失望したりした影は見えなかった。
かえって、子等のためには何事をも辞さない母親の、火のような愛と反抗的な決心が、あくまでも我子を庇護しようとして猛然と燃え上っているのばかりが気附かれるのを見て、私はほんとうに有難い、またいとおしい心持に撃たれたのである。
けれども、私の心は昨夜の状態から僅かの変化をも生じていなかった。
依然として、肯定と否定が妙な形で、各自の位置を保っている。
そして、道男の熱が下らないこと、私が今年の正月から厄《やく》よけのおまじないだからといって、鱗形のついた襦袢《じゅばん》の袖を着せられていること、父が彼の厄年の年末に、突然最愛の妹を失ったという事実などが、皆一緒になって、恐れている肯定の味方につき、厄年などということに因襲的な、また迷信的な不安を感ずる心を頭から冷笑する心持と、目に見える負け惜しみが、やっきとなって、悲しい考えを揉《も》み消そう揉み消そうと、いきり立っているのを感じたのである。
大人に何か云われた子供が、それはそうだと理窟では知りながら、
「嘘《うそ》だい! 嘘だい!」
「そんなことあるもんか!![#「!!」は横1文字、1−8−75]」
と泣きながら怒鳴って、地面をドンドン蹴とばしているのを見るような心持がする。
ジイッと心を鎮《しず》めて考えて見なければならないことがありながら、自分でもそれのあることは知りつつ、それに思いきってぶつかってみるだけの勇気がなくて、ワイワイ大きな声や足音ばかりを立てて、はぐらかしているような気がして堪らなかった。
平時は、何とか彼とか思っていても、イザとなると、自分は小人だということがしきりに考えられて、その晩はよく眠られなかった。
次の日、或るところで、或る尊敬し愛している先生にお目にかかったとき、弟の病気のこと、自分の厄年のことなどをお話しした。
そして、厄年などというものは、人々の生理的心理的の一転期を警告的に教えた、故人の符牒《ふちょう》に過ぎないものだと思ってい、またそれだけのことだと信じていたのに、今度の機会によって、それがどんなに心の底の方で、漠然宿命的な色を帯びた不安となって潜んでいるのを知ったかとお話ししながら、フト淋しい心持になった。
熱は、いろいろな方面から研究されながら、九度三四分から八度七八分の間を細かく縫って、一週間続いた。そして、益々チブスの疑いが増して来るとともに、私共の札幌行は、もちろん中止になった。
それを惜しがるには、あまり我々の心が病弟の上にのみ注がれていた。
若し彼がチブスだと定まれば、或る期間当然持続すべき高熱に比較的弱い心臓が堪え得るかということと、まだ根絶しない脚気が恐るべき影響を及ぼさないだろうかということが最も案じられることなのであった。
夕方事務所から帰って来ると、父は第一に病人の様子を訊ねる。
「どうだろう大丈夫だろうか?」
何にしろ体質が体質なのだから、決してこわいことはあるまいと思うがとは云いながら、彼の顰《しか》めた顔の奥では、ちょっと触れても身ぶるいの附くほど冷たい、恐ろしい考えが、はっきりと浮んでいたのは、争われない事実である。
一日の激務に疲れて帰った父を苦しめまいため、日夜の看病で少し痩せたようにみえる母を悩ませまいため、父母の互の不安と恐怖とは、皆私をクッションとして交換された。そして、いよいよ自分のうちに明確な輪郭を調え、拡がりを増して来た「あれ」に就ては、その仄《ほの》めかす一言半句さえ云い出す大胆さを私は持ち得なかったのである。
小さい弟妹もあり、全然隔離し得る室もないので、九日に彼は入院することに定まった。母はもちろん彼自身さえ、十分全快し得る確信を持って、Z病院御用と朱で書いた寝台車に乗せられて行ったのである。
それから毎日、母と私が交代に半夜ずつ徹夜しながら、室に附属している堅い長椅子の上に宿《とま》った。
食堂が揺れそうに賑《にぎ》やかだった晩餐も、病院へ行く者があったり、帰る者があったりして、まるで雑駁《ざっぱく》な寂しいものになってしまった。
睡眠不足と始終の緊張とで、私も母も、休みに家へ帰って来ると、笑いたくもなければ物を見たくもないような神経の疲れを感じた。
それでも、そんなことには容赦なく家事の下らない、けれどもなかなか見かけほど単純にはすまされないいろいろのことが、帰るのを待ちかねて一どきに押し寄せて来る。
気の毒な母と私は、結局どこへ向っても心配と、混乱からは遁《のが》れられない状態にあったのである。
そして、確かに疲れていることは母も私も殆ど同様であったかもしれないが、私には母が異常に昂奮して
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