いるように見え、母からは私が恐ろしく過敏になっているように見えたので、互にできるだけの休息と睡眠を与えようとする譲り合い、愛情から出たかなり執拗な勤めかたが、かえって互の感情を害すようなことさえあった。
入院した日からまた少しずつ熱は上昇した。
一日に二三合の牛乳を摂取するばかりで、ウトウトしながら折々、
「おかあさま、おかあさま疲れた……」
とつぶやく彼の、五尺五寸の体躯にはかなりの憔悴《しょうすい》が見え始めて、チブスの疑いはいよいよ事実として現われて来るらしかった。
ところが十二日の夕暮のことである。
その日は午後からズーッと家に帰っていた私のところへ病院から電話が掛って来た。
「奥様が、お嬢様をお呼びでございます」
とくや[#「とくや」に傍点]という女中が、いつもの通りにこにこしながら、ゆっくりした言調で私を呼びに来た。その様子を見たばかりでも、もう何ということはない軽い「おどけ」を感じていた私は、受話器を耳にあてると、殆ど無意識に、
「モシモシ奥様でございますか」
と、半分笑い、半分作り声をして云った。もちろん、忽ちふきだす母の大きな心持いい声を予期していたのである。
けれども、どうしたのか何の響きも伝わって来ないので今度は作り声をやめ、少し不安を感じながら、
「モシモシおかあさま」
と呼んでみた。
するといきなり、ふだんの母とはまるで違った声が、激しく、
「百合ちゃん、百合ちゃん! 道男さんの頭が変になってしまったよ」
と、終りの方は殆ど嗚咽《おえつ》と混同しながら、極度の混乱をもって叫ぶのを聞いた瞬間。
あらゆる力が、サアッと流れきってしまったような疲れに似た感じに撃たれると同時に、途方もない力をこめて反射的に受話器を置いてしまった。
一声の返事をも与えなかったに拘らず、これからのことが皆母にも自分にも解っているのを感じた。
それから三十分の後、父と私が病室に入ったときには、午前中見た表情とは、まるで、まるで変ってしまっている彼の上に、私の目にも見違い得ない脳膜炎の症状が、痛々しい痙攣《けいれん》と頸部の強直に伴って襲いかかっていたのである。
あの魂を引きむしられるような叫喚《きょうかん》。
あの物凄い形に引きつった十指、たえず起る痙攣のあの恐ろしい様子を、私はどんな言葉で云い表わすことができるだろう!
神よ! 全く堪らない。
それは実に、私と同様の半狂乱の真剣さで、肉親の弟の上に起った、「あの」苦難をまのあたり注視し尽した人々にのみ同感し得る感銘なのである。
必要な箇所に危篤の報が伝えられた。
すき間もなく取り囲んだ医師達によって、種々の手当が与えられた。
そして、幸《さいわい》にもごく僅かずつ、痙攣が鎮まり、今夜中の危険は十中八九なさそうにまで鎮静したのは、殆ど十二時近くであったろう。
けれども、彼の広い胸じゅうその力を集めて叫ぶ声は、殆ど黎明《れいめい》までも続いた。
三
四十度だった熱はその翌日――十三日の朝九度に落ちた。そしてかなり有難い熟睡が平穏に続いた。
十四日は、八度八分、十五日には八度まで下って、牛乳も飲ませてさえやれば四五合ぐらいずつも飲んだ。
けれども、意識はどうしても明瞭になりきらない。或るときは明るく、或るときは暗く、その律動的な素質のままに、歌ったりものを云ったりした。
大波のうねりにまかせて漂っているうちに、フーッと波頭に乗りあげるように、はっきりすると、彼は先ずきっと、「おかあさま」と呼びかける。
「おかあさま、今七月? 七月の何日? 僕なぜここにいるの」
こんなことも云った。
「そこにいるの誰? おかあさま」
「高橋さんですよ」
「高橋? 僕知らないや、こっちへ来て顔見せて。よ」
顔を見ても、声を聞いても名を云われても、彼の頭はもうそれを統一して、高橋さんという一人の看護婦の表象を作る能力を失っているとみえて、何度も何度も同じ問答を繰返しているうちに、またスーッと意識は暗くなって来るのである。
今まで、眼を明いて人の動くにつれて注意を動かしていた彼の顔からは、一つも残らず緊張の影が消えてしまう。
眼をほそくし、何ともいえない単純な、平和な、眠たい幼子の歌うような声で、“In Happy Moments Day by Day”という、彼の愛唱歌の節ばかりを口吟《くちずさ》み始める。
その緩やかな、夢見るような声の流れに耳を傾けると、あらゆる拘束や抑圧から解放された、まだ十五の男の子の素直な、単純な心の美点ばかりが、仄白くつつましやかに輝きながら、自分の心のうちに滲《し》み透って来るような心持がした。
あの夜以来、自分の否定しよう否定しようとしていた予感は、もう予感という言葉を許されないほど歴然としている事実
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