とともに、一層しゃんとした心の用意を促がしているように思われる。
 どうにもしようのない現在の状況を突きつけられて、かえって自分の理智と感情は、かなりまで調和しながら今まで見出されなかった一路に向って静かに動き出したのである。
 一人の人間の死として、必ず遁れ得ず、また遁れた結果は死以上の不幸を当然彼の上に齎《もた》らされるに違いない彼の死を、一人の人間としての自分は悲しい肯定、止むを得ない肯定をもって見る。
 ハアッと号泣して、彼を死なせるようにした「天の無慈悲不公平」を呪咀《じゅそ》し怨恨《えんこん》することのできない大きな、偉《おお》きな力の暗示に撃たれるのである。
 若し彼に特殊の尊い能力があれば――実際彼は機械に関しては、家中唯一人の智者であり発明者であった――いろいろな点で嫌厭《けんえん》すべき悪習と、不徳に満ちた軍隊生活を送らせ、空しく砲弾の餌《え》じきにさせることは、殆ど絶対的に拒絶したいとさえ思っていた私も、今は従わなければならない偉いなる力を感じるのである。
 私が、出来得るかぎり正しい、客観的な位置に心を置いて静かに考えるとき、自分の上にも、他人の上にも、よしまたそれがいかほど自分の愛している者達の上にでも肯定しなければならない力を感じる。
 生の光栄のため、我々お互同志の深い愛のために、死は決して否定されないのを思うとき、ただ心臓が鼓動し、呼吸が通っているのみで、彼は生きているという一人の者の上に、私は生よりも死を選ぼうとする自分の心を思うとき、そこには僅かの感傷的空想も、甘えた涙も許されない。
 精神的にも肉体的にも生きる可能の乏しい者として死ななければならない彼のいることも、その死をいかほどか歎くだろう父母のあることも、皆、ごまかすことも、逃げ出すこともできない事実である。
 人間らしい辛抱強さと、勇気と愛とをもってジイッと持ち堪《こた》え、突き進んで行かなければならない現実の一事件である。
 彼に死なれるのは辛い。悲しい。
 けれども、今の自分は、もう三年前に五つの妹を失ったとき歎いたように、「悲しめる心」のうちにとじ籠って、かなり自分の悲しみに甘えながら歌を書いてはいられない。
 彼女の生命である「我が子等」の一人を失おうとする悲しみに、どうかして取り戻したいという盲目的な有難い「おかあさまの愛」に、殆ど夢中になっている母を見ても、どうしても心は眩《くら》まない。
 外からの刺戟が雑多になればなるほど、自分の心を統治して行く何物かの力は確実になって、苦しさに堪えないほど、いろいろなものはその真実のままはっきりと自分の心に写って来る。かなり恐れている自分自らの死に対しても、このときの私は平常の十分の一ほどの恐怖も、いくじなさも持たなかった。
 一日一日と一つ本を読むごとに、人の話を聞く毎にだんだん自分の心にはっきりとした輝きを持って来る、生の尊さのため真の善のため、人間らしい人間になろうため、朝から夜まで命がけの努力をして行きながらでも、若しか急に明日死ななければならないことになったら、自分は死ななければならない。自分が或る場合、他の人々の上にも肯定しなければならない、死ならば、自分の上にも肯定しなければならない。近頃或る立派な美術家が、自分の死までの経過を観察しながら絶命されたことを聞いたときの感歎が心に再生して来るのを感じた。忘却も憎むことはできない。
 心は非常な痛み、苦しみをもって重く深く沈湎《ちんめん》して行く。けれどもそれは、目のとどくかぎりの奥まで澄み透っているらしい心持がする。
 そして明かに力の感じとなって、死のうとする者、死なれようとする者に対しての愛情が湧然《ゆうぜん》と胸に充ち渡るのを感じたとき、自分は死の肯定によって一層強められた生の光栄のために、魂が燃え上るのを感じた。

        四

 十六、十七の両日の間に、すべての状態は漸次《ぜんじ》死に近づいて来たらしい。
 熱の下降と脈搏の著しい増加を来して、十七日の夕刻には発病後始めて、百の脈搏と七度七分の温度とが記入された。そして、すべての精神作用は、全く休止してしまったのである。彼の骨だらけな手を撫でながら、ポロポロ涙をこぼしている母の悲痛な顔を見、涙を拭き拭き気をとりなおそうとするらしく頭を振る父の「いい顔」を見ると、私はほんとうに何とも云われない心持がした。
 親達の生きている間は、死ねないと思わずにはいられなかった。
 もうかなりの年になっている両親にとって、十五年の間限りない心遣いと、限りない望をかけて育てて来た息子を今失うことは、全くどのくらいの打撃であろう。泣き伏している母も、「大きな男だがなあ」と歎息する父をも、そおっと自分の胸に抱き擁《かか》えて、泣きたいだけ泣かせてあげながら、自分も眠くなるほど
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