オイオイ泣いてしまったらなあと思った。
睡眠不足と極度な緊張の弛《ゆる》む暇のない自分の心と顔は、尖って青醒めた色をしながら、殆ど常軌《じょうき》を逸したような過敏さと、正反対の落着きの両面を持っていたのである。
もうどんなにしても、彼の生命に近づきつつある最後の一時を否定できないにも拘らず、彼の体躯の偉大であることが、愛する者達の、心に気休めに似た一種の希望、といおうより一つの恐ろしい考えから遁れるだけ遁れようとする反動的な迷信を起させているらしかった。
量り知れない母の熾烈《しれつ》な愛情は、今はもう彼が、自分の眼で見えないところ、触れないところ、声の聞えないところへ連れて行かれることが厭なのである。こわいのである。
長い間、何でもなく彼と話し笑い、彼の強力で助けられていたのを、そしてまたそれが永劫《えいごう》不変のように思われていたのを急に一生彼から離されなければならないのを考えただけでも堪らないのである。
そこはもう、理窟の領分ではない。
「どうにかして救われまいか、どうかしたはずみにフッと正気に戻るまいだろうか」と泣く母に対して私は云うべき一言をも持たない。
私が三つのとき、激しくひきつけたとき、札幌の四月末の雪の中を裸足《はだし》で医者まで連れて行ってくれた愛情、善いにつけ、悪いにつけ、無限に我々の上に濺《そそ》がれている愛情に対して、自分は自分の心に与える批判を、そのまま加えるほど、無感動であり得ない。
彼女は徹頭徹尾「母」である。
十二日の夜以来、再びあの恐ろしい発作は起らなかったけれども、十八日の昼頃、百二十六の脈搏と八度の体温とは、始めて表の上で不吉な兆《きざし》を現わし、最後の手段として腰髄刺穿《ようずいしせん》が施された。
かなり大きな試験管に、二本と五分の一ほども液体がとれたので、脳の圧迫が多少減じたため、その夜から十九日の夕刻まで体温と脈搏とは同点を指しながら、七度三分、百というところまで来た。
この時分になると、験温表はもう単に体温と脈搏とを記録するだけのものではなくなって来た。立派な一つの楽譜である。生命の終焉《しゅうえん》の音楽が、赤と碧《みどり》の色鉛筆によって、その表線の上に写されたものとほか感じられない。複雑な高低を持ったたくさんの点は、私がいつか一生懸命に練習したことのあるモツアルトのソナータの数節を思い出さずにはいられなかったほど、律動的なものであった。
高音が急速な優しみのある旋律で旋行して行くにつれて、全く、八度の重々しい低音の、男性的な協和音程が息もつかせず強調して行く。そして、やがてd'[#「d'」は横組み]の夢幻的な顫動《せんどう》のうちに落着く、あの響を想起したとき、私は命の、あまりの麗《うる》わしさに心を撃たれた。
淡い秋霧に包まれた桐や棕櫚《しゅろ》が、閉めた窓々を透して流れ出る灯に、柔かな輪郭《りんかく》を浮かせている静かな、ぬれた病院の中庭を眺めながら、自分は魂のささやかな共鳴りを感じた。大変歌いたい心持になったけれども、適当な歌詞も声も持たない自分は、ただ心のうちで「限りなく麗わしきいのちよ!」と讃えることほか知らなかった。
腰髄刺穿によって期せられていた、僥倖《ぎょうこう》の百万分の一ほどの微かな望みも絶えて、十九日の夜半から二十日の黎明にかけて、脈搏はグングンと増加して、六時頃熱は七度八分なのに対して、脈は百二十という差を現わした。
そして、最後の徴《しるし》である喘鳴《ぜんめい》が起り始めたのである。始め私はただ痰《たん》が喉にからまっているのだとほか思わなかったから――私は喘鳴が起ればもう最後だということなどはちっとも知らなかった――しきりに、「早くとっておやりなさい、おやりなさい」と母や看護婦にせっついた。
皆黙ってその通りにする。
自分でも手伝ってあげたかったけれども、若し突附きでもすると大変だと思って控えているところへ、注射器をもって入って来た医者の方を眺めた母の顔を見たとき、あの急に衰えたような、痛手に堪えかねた負傷者のような表情を見たとき、自分はグラグラとした。
「アアもう駄目だ」
手と足が一どきに氷のように冷たくなってしまったけれども、心だけは一層大きな眼を見開いた。
いくら、取ってやろうとしても、もう絶望だということを知らなかった自分が、いつものように単純な調子で、
「おかあさま、早くとってやるといいわ、苦しそうよ」と云ったことは、母にとってどんなに苦痛だったかということも考えられた。
泣くどころではない。
殆ど憤怒に似た表情を浮べたたくさんの顔は、一生の記憶に遺したいため、できるだけ多く、よく彼の「生きている顔」を見ようとする真剣さに、つかみかかりそうな緊張をもって彼を見据えている。
自分ではまるで
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