知らなかったが、そのとき私はいつも何か考えるときするように、しっかりと腕組みをして、ひどく顔をしかめながら、にらみつけるように彼を見詰めていたそうだ。
私は、自分の前に今死のうとしている一人の人を見た。二十日前までは、あんなに肥り勢のあった若い一人の男の子は、どうして死ぬのか。
私は、彼の印象を強く頭に遺しておきたい願望で、殆ど貪婪《どんらん》になった。いくら体中の注意を集めても、異常に興奮した自分の頭に信頼する危さを知ると、辛抱できずに紙と鉛筆とを出した。
そして、私の覚り得るかぎりの変化を記録しにかかったのである。
若しかすると、それは死者に対して失礼だと云われることだったかもしれない。
けれども、若しそうならどうぞ勘弁しておくれ、私はそうせずにはいられなかったのである。
私は紙に穴の出来るほど力を入れて文字を書いた。
八時十分過。呼吸益々苦しくなる。暗影が顔を被い、爪が蒼白となる。喘鳴甚。桶の中で胡桃《くるみ》を掻きまわすよう。少し血走った眼で、しきりにあっちこっち見まわし、非常に落着かない、不安な混乱の表情を現わす。
九時二十分前。呼吸浅、速。眼上へあがる。
同十五分前。呼吸復旧。不安な焦躁《しょうそう》の表情去り、ガッカリした、疲れた、途方に暮れたような表情になる。母が眼を瞑《つぶ》らせようとするけれど、母の方ばかり見て決してつぶらぬ。黒、紫の混ったつめたい色、顔中にサアッと走る。
このとき、自分はフト彼の爪を見るために、手を見た。すると、紫がかった冷たい手の中指に出来ている、大きな胼胝《たこ》に注意を引かれた。いつか彼が、汽車を作ろうとして、毎日毎日鉄やブリキをいじっているうちに出来たのである。それを見ると、自分の目前には、鴨居につかえそうな体で、ニコニコしながら、ほんとうに何ともいえないよい微笑を漂《たた》えながら、腕一杯に機械の道具を抱えて、ノシリノシリと歩いて行く彼の様子が足音さえ聞えて、はっきりと浮び上って来た。
私を帯で吊り下げて、平気で歩きまわる赭《あか》ら顔の彼が、制服の上着だけ脱いだまま、ゆっさりとたくさんの物を抱えながら、汚れた帽子の下からニコニコと、とけそうにいつもの八重歯を出して嬉しそうに笑いかけるのを見ると、急に眠っていた追想の数々が目覚まされて、思わず太い呻《うめ》きを立てたほど胸が苦しくなった。
英国の父から送ってくれた、美くしい飾珠《かざりだま》の一杯ついた馬具をつけた彼が、小さい銀の鈴を鳴らしながら「おんま、ハイチハイチ」と這って行く。
彼が運転手になった、屏風《びょうぶ》箱の電車にのって、私共は銀座へ行った。
「軍艦の、軍艦の、軍艦のハ――」
木作りの軍艦に紐《ひも》をつけて、細い可愛い声で歌いながら、カラカラカラカラと廊下を往復している彼、その時代の私達姉弟の思い出が、あまり楽しいので、いとおしいので、私は辛抱しよう、しようと思いながらつい涙をこぼしてしまった。
それからそれへと、果もなく延びて行きそうだった追憶は、彼の激しい喘鳴のうちから、明瞭に聞かれた「どこへ」というつぶやきによって破られた。
明らかに疑問のアクセントを持った、「どこへ」というあとについて聞きとれなかったもう一つの響きが続いた。
「どこへ?……」
自分は、驚きとともに反問するように彼の顔を見た。
「どこへ?……」何の意味があるのだろう。
すっかり青ざめた額一面に、膏《あぶら》が浮いて寂しく秋の日に光っている。
「どこへ?……」自分はこの言葉から、無数の思いを繰り出せる。けれども、彼がそんな意識をもって云ったのでないことは明らかである。
けれども……私はこの一句から先へ進むことはできなかった。何かあるに相異ない、何があるだろう。自分は心に浮んで来るいろいろなことを、あれでもないこれでもないと選《よ》って歩いた。
どれもこれもそうらしいのはない。単に偶然発された言葉と解釈するほかないのだろうか。もう少しで、この一句を遺して行こうとしたとき、フト思いついたことがある。けれどもそれはあまり恐ろしいことである。私は彼がいつか一種の輪廻《りんね》説のようなことを信じていると云ったのを思い出したのである。
そのとき彼は――多分去年中のことであった――若し自分がこの家でないどこかの家に生れて、食べる物もなければ、着るものもなく、何かといってはすぐ擲つような親の子になったら、どんなに情けなかったろう。
そして、死んでから生れ換るとき、若し自分がいつもいつも可哀そうだと思っている宿無しの小っぽけな犬や、鞭でピシピシたたかれながら、何にも云えずに荷を挽《ひ》く馬などになったらどんなに苦しいだろう。
「いくら何か云おうと思っても口もきけないんだものなあ、僕そう考えると全くこわい。僕どうした
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