ワーッ! と鬨《とき》の声をあげて、彼方の空へとひた走りに馳け上ってしまう。
まるで気違いのようにあっちの隅から、こっちの隅まで馳けずりまわる雨の轟《とどろ》きに混って、木が倒れたり瓦が砕けたり、どこかの扉がちぎれそうに煽られたりする音が聞えて来る。
折々青い火花をちらして明滅していた電燈は、もうとっくに消えてしまったので、蝋燭《ろうそく》をつけると、一あて風がすさぶ毎に、どこからか入って来る風がハラハラするように焔を散らす。
やがてその蝋燭も消えてしまった。真暗闇のうちで私はすくむような心持になりながら、黙ってはいるが気味の悪いに違いない弟の手を握って、堅唾《かたず》を飲んで坐っていた。
生れて始めて、こんなにひどい嵐に遭ったので、私はほんとうに度胆《どぎも》を抜かれて、何を考えることも思うこともできないような心持になった。
ただ怖《こ》わいというだけをはっきり感じながら、小さくなっていると、いつともなくまるで思考の対照を失っていた心のうちに弟のことがズーッと拡がり出した。
それも、彼のどのことを考えるというのではなく、彼――道男――という名によって総括されている彼全体の感じが、漠然と浮み上って来たのである。
すると、その彼の感じは暫くの間、外と同じように暗い心の表面で揺れるようにしているうちに、だんだんその周囲だけがほんのりと明るんで来たと思うと、何かもっとずうっと力の強い別な心持がそれに加わって来るのを感じた。そして、やがてそれはどうだろうかなという確かな意味を持つ危惧の念となったのである。
もちろん、彼の病気はどうだろうかなと思ったのである。けれども、それに続いて起った感じは、純然たる絶望だったのに自分は、思わずハッとした。
最初にあの感じが起ったときから、ここまで動いて来る心の後を附けていた、もう一つの自分の心が非常にあわてたのを感じた。
けれども、なぜ彼は死ぬということが、今頃から分るのだ。妙に反抗的な心持になって自分は考えた。
彼が死ななければならないほど、苦しがっていもしないのに。第一まだ医者さえ来ないでどうしてそんなことが解るのだ。あまり嵐が怖いので、お前はどうかしたな。
私はそのまま笑ってしまうか、さもなければ確かにあまりこわいので調子の狂っているどの点かを見出したかった。
けれども、不思議なことには、そんなにも否定し紛らそうと努力する意志が強いにも拘らず、心のかなり大部分は、それを肯定するような傾向にあるのを知ると、なおさら恐ろしいような妙な心持になってしまった。
そこでは、否定する意志と、肯定したより広い何物かは、もう対立という関係を破っている。
静かに落着いた、そしてかなりまで澄んだ何物かが、動かすべからざることとしてそのことを肯定している前で、まるで脳味噌のない侏儒《しゅじゅ》のような否定が、哀れな、けれども彼自身としては死物狂いの大騒動をしているようにさえ感じたのである。
けれども自分は、天にも地にも三人きりほかいない弟達の一人である彼の、生命に関しての予言を得るほど、精錬され、白熱されたものとして自分の魂を自信することは、とうてい出来なかった。
それはあまりに大事すぎる。ちょっとでもそんな風に考えてみるのさえ、自分としては大それたことだと感ぜずにはいられなかった。
彼にも、父や母にもすまないような心持になりながら私はどうしても消えない妙な心持と苦しい争いを続けた。
二
翌朝になって、熱が七度台に落ちた。けれども、また直ぐに元ぐらいまで昇ってしまったので、私共の喜びもほんとうの糠《ぬか》よろこびになった。
医者が来て、「腸胃熱でなければ、この頃はやっている、無名の熱かも知れません、もう少し様子を見ましょう」と云って心臓のためにジガレンを調《ととの》えてくれた。
私が十六の夏にやはり訳の分らない熱をまる一月出しつづけた。そして、まるで夢中になってしまったことさえあってもこうやってすっかりなおったばかりでなく、病気以前と比較するとすべての生理状態が良くなっているから、「道っちゃんもそうなのだろう」と、云うものもあった。
「おかあさま、心配するのをお止めなさい」
と家じゅうの者が、あまり心を遣《つか》っている母を慰めた。
母は非常に、全く驚くほど心配していたけれども、ふだんいい体格なのだから、手当てがよくて病名さえきまれば、自分の愛情だけでも恢復させずには置かないぞ! という意気込みと自信とがあるらしかった。
そして、一週間ほど前に、「あぶないからおやめ」と注意したにも拘らず、彼が冷肉の添物のサラダをたくさん食べたという事実を知ったとき、彼女の心には或ることが閃いたらしかった。
「今度はなかなか戯談《じょうだん》ではすまないよ。熱の質が気
前へ
次へ
全8ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング