一つの芽生
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)賑《にぎ》やかに
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)そんなにむき[#「むき」に傍点]になって
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この一篇を我が亡弟に捧ぐ
一
もう四五日経つと、父のおともをして私も珍らしく札幌へ行くことになっていたので、九月が末になると、家中の者が寄り集って夕飯後を、賑《にぎ》やかに喋り合うのが毎晩のおきまりになっていた。
その夜も例の通り、晩餐《ばんさん》がすむと皆母を中心に取り囲んで、おかしい話をしてもらっては、いかにも仲よく暮している者達らしい幸福な、門の外まで響き渡るような笑声を立てていた。おいしかった晩餐の満足と、適度な笑いを誘う滑稽の快さで、話しても聞きても、すっかり陽気に活気づいていた。
けれども、その楽しい心持は、暫くして母の注意がフト次弟の顔色に注がれた瞬間から、全く「その瞬間」からすべてが一息に、正反対の方へと転換してしまった。或る人々の言葉を借りていえば、その一瞬間のうちに彼及び私どもの、永久的な運命の別れ目が刻されたのであった。
ニコニコと心に何のこだわりもない微笑を浮べながら、皆自分よりは強そうな息子達の顔を、順繰りに眺めては、即興的な批評を与えていた母は、次弟のところまで来ると、非常に微かではあったが表情を変えた。そして、暫く見ていたが、やがて小さい声でオヤと云った。
「道男さん、熱があるんじゃあないかえ」
と云いながら、すかすように首を曲げて、卓子《テーブル》の一番端に頬杖《ほおづえ》を突いている彼の顔を見た。
「僕? 熱なんかありゃあしない」
「でも大変赤いよ。ちょっとこっちへ額を出してごらん」
「いいったら、おかあさま。僕熱なんかありゃあしない!」
彼は、自分の方へ注意を牽《ひ》かれている者たちを見廻して、一層顔を赤めながらまるで怒ったような声で否定した。
母のいうことにはいつも素直な彼が、そんなにむき[#「むき」に傍点]になって云い張るには訳があった。
十月の三日から、日光へ学校からの旅行があるのだけれども、夏時分から脚気で心臓も悪かった彼は、家じゅうの者にとめられた。けれども、ぜひ行きたいと云うので、四五日前医者へ行って診断してもらった結果、ようよう渋々ながら許しを得た
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