にくわない」と、明かにチブスかも知れないという意味で、重々しく私に囁《ささや》きながらも、その顔にはちっとも当惑したり、失望したりした影は見えなかった。
かえって、子等のためには何事をも辞さない母親の、火のような愛と反抗的な決心が、あくまでも我子を庇護しようとして猛然と燃え上っているのばかりが気附かれるのを見て、私はほんとうに有難い、またいとおしい心持に撃たれたのである。
けれども、私の心は昨夜の状態から僅かの変化をも生じていなかった。
依然として、肯定と否定が妙な形で、各自の位置を保っている。
そして、道男の熱が下らないこと、私が今年の正月から厄《やく》よけのおまじないだからといって、鱗形のついた襦袢《じゅばん》の袖を着せられていること、父が彼の厄年の年末に、突然最愛の妹を失ったという事実などが、皆一緒になって、恐れている肯定の味方につき、厄年などということに因襲的な、また迷信的な不安を感ずる心を頭から冷笑する心持と、目に見える負け惜しみが、やっきとなって、悲しい考えを揉《も》み消そう揉み消そうと、いきり立っているのを感じたのである。
大人に何か云われた子供が、それはそうだと理窟では知りながら、
「嘘《うそ》だい! 嘘だい!」
「そんなことあるもんか!![#「!!」は横1文字、1−8−75]」
と泣きながら怒鳴って、地面をドンドン蹴とばしているのを見るような心持がする。
ジイッと心を鎮《しず》めて考えて見なければならないことがありながら、自分でもそれのあることは知りつつ、それに思いきってぶつかってみるだけの勇気がなくて、ワイワイ大きな声や足音ばかりを立てて、はぐらかしているような気がして堪らなかった。
平時は、何とか彼とか思っていても、イザとなると、自分は小人だということがしきりに考えられて、その晩はよく眠られなかった。
次の日、或るところで、或る尊敬し愛している先生にお目にかかったとき、弟の病気のこと、自分の厄年のことなどをお話しした。
そして、厄年などというものは、人々の生理的心理的の一転期を警告的に教えた、故人の符牒《ふちょう》に過ぎないものだと思ってい、またそれだけのことだと信じていたのに、今度の機会によって、それがどんなに心の底の方で、漠然宿命的な色を帯びた不安となって潜んでいるのを知ったかとお話ししながら、フト淋しい心持になった。
前へ
次へ
全15ページ中5ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング