とかくそれだけ切りはなした言葉で問題とされ勝ちだけれども、日々の生活のなかでは、めいめいの生活態度全体とまったく有機的につながり合っているもので、友情を語ることは、人生への態度を語るという意味がもたれるのだと思う。
 世間で、人はそれぞれそのひとの程度に応じた恋愛しかしないものだといい習わしている。この場合、そのひとの程度ということはもちろん金銭の多寡や地位を意味しているのでないことは明かである。人間成長の内容をさしているのだが、友情についてもそれはいえることだろうと思う。ただ従来、そのひとの程度というとき、個人的な限度で、各人の天質とか仁とかいう範囲でだけ内容づけられていたものを、もっと社会的な複雑な要因の綯《な》いまぜられたものの動きとして感じているから、そういう実質でかりに我々の程度というときには、個人に及ぼしている歴史の段階ということも実際としてふくまって来ているのである。
 人生を愛し、熱心にそこを生きて行こうとするほどの者は、誰しもこの社会の人間関係のより豊富さ、より暢《のび》やかさ、より豊饒な発育性を切望しているのが本心と思う。そういうものとして、よりよい友情の花を同性の
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