伊太利亜の古陶
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)徐《おもむ》ろに
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)直径九|吋《インチ》もあろうか。
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#「木+解」、読みは「かしわ」、第3水準1−86−22、435−6]
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一
晩餐が終り、程よい時が経つと当夜の主人である高畠子爵は、
「どれ――」
と云いながら客夫妻、夫人を見廻し徐《おもむ》ろに椅子をずらした。
「書斎へでもおいで願いますかな」
「どうぞ……」
卓子《テーブル》の彼方の端から、古風な灰色の装で蝋のような顔立ちの夫人が軽く一同に会釈した。
「お飲物は彼方にさしあげるように申しつけてございますから……」
「じゃあいかがです日下部さん――日本流に早速婦人方も御一緒願うとして悠《ゆっ》くり寛ろごうじゃありませんか」
「お先に」
「いや、どうぞ子爵から……」
戸口でおきまりの譲り合いの後、高畠子爵が先に立って部屋を出た。後から日下部太郎が続く。彼の艶のよい、後頭部にだけ軟かな半白な髪がもしゃもしゃと遺っているペテロのような禿頭は、前を行く子爵のすらりとした羽織の渋いけし繍《ぬ》いの紋位迄の高さしかなかった。男にしては低い丸々とした躯を彼は品のよいモーニングに包んでいた。彼はその躯を心持斜にひらいて、すぐ後に跟《つ》いて来る子爵夫人に敬意を払い、一歩一歩に力を入れ、さながら歩くことまで今日は愉快な適宜な運動と感じているように進んで行った。
彼の風采には、快活な眼付から真白なカフスの輝に至る迄、一種渾然と陽気さと慇懃《いんぎん》さとの調和したものが漲っていた。彼を見ると、口を利かない先から人はこだわりのない社交性の愛素よい漣と、信義に篤そうな暖みとを感じた。若し敏感な教養のある観察者なら日下部太郎が彼のN会社の専務取締役という職業にも似合わず相当に洗煉された趣味家であることをも、服装や話題から発見し得ただろう。
殊にその晩、彼の特徴は華やかに発揮された。彼は自ら座談のリーダーとなった。相手をいかにして面白がらせようなどという考慮は一切忘れ先ず自ら喋る話題に打ち込み、活溌な楽しそうに話す調子に傍の者はひとりでに巻き込まれた。その上、彼の条件がその晩はよかった。皆の体に苦情がなく、晩餐の白葡萄酒が稀に美味なものであったというばかりではない。日下部太郎はつい先頃、高畠子爵の二十六になった長女を、伊勢の豪家へ縁付ける媒酌をした。三日ばかり前に正式の結納が取り換わされたところであった。当時、高畠夫妻にとって、その未婚の長女は何より苦労の種であった。長男の妻となるべき令嬢は定っていた。昨年学習院を出たばかりの次女の縁談さえ名望ある青年貴族との間に整ったのに、屡々《しばしば》社交会にも引出し、それとなくよい候補者を物色しつづけていた長女の行末ばかりは何とも見当が付かずに遺された。晨子は、静かな、おっとりした何でもひとまかせな性質であった。はっきりした欠点は一つもない代り、紹介する時とり立てて相手の興味を牽《ひ》くような何ものをも持たなかった。上品でこそあれ、彼女の容貌もごく十人並であった。父の高畠子爵が夫人に向って、
「あれは幾つになっても無色透明だな。あれでもよしわるしだ」
と述懐した、その通りの娘なのであった。どうかして、難しい小姑という地位に置かれないうち、自分だけ幸福に見すてられたと妹の島田を見て思わないうち、晨子の運命を明るくしたいという親心を、日下部太郎は同情を以て推察した。彼は、広い交際の網目を彼方此方と注意した。そして、彼が牛津《オックスフォード》留学時代、その父親と親しくした今度の青年を見出したのであった。
高畠子爵は、青年が有望な外務省書記官であるのを喜んだ。夫人は、爵位のない先方が大槻伯爵の親戚であるので安心した。
日下部太郎は今晩、その礼心として内輪の招待を受けたのであった。
書斎に行くと、日下部は待っていた小間使の手をかりず、気軽に自分で椅子を煖炉の前に持ち出した。
「さあ、どうぞおこのみの席におつき下さい。御婦人がたは火のお近くに」
「いや君、それはいけない」
子爵が真面目くさって日下部を遮った。
「我々は細君方より少くも五つや六つは年上だ。年長者の特権というものは、煖炉の近くで最もいい場所を占めるにある。どれ――では失礼」
子爵は、皆を笑わせながら、どっかり安楽椅子に納まった。珈琲《コーヒー》とキュラソオとが運ばれた。日下部太郎は、婦人達に向って二言三言毒のない冗談を云い、子爵と愉快そうに酒の品評を始めた。
二
此方では、子爵夫人とみや子とが並んで長椅子にかけていた。
端正な、然し一度もぱっと咲き揃った花盛りという時代はないなり凋《しぼ》んだような顔をみや子に向け、子爵夫人は感歎した。
「いつおめにかかりましても日下部さんはお気が若くて何よりでございますことねえ」
「騒々しいばかりで恐れ入ります」
みや子は、小ぢんまりした夫人の横でなお堂々と感じられる盛装の体をちぢめるようにしながら謙遜した。
「いつもいつもさぞおやかましゅうございましょう」
「何の、お賑やかで何よりでございます。私共ももう直ぐお祖父《じじ》さま、お祖母《ばば》さまでございますが、お宅では?」
「私共では男ばかりで先が遠いことでございます。上のがやっとこの春大学へ入る筈でございますがいかがなりますか……」
珈琲を静にまわしながら、みや子は微に声の調子を更えた。
「それにつけても、御前様はさぞ御安心でいらっしゃいましょう。もうこれから皆様の御繁昌を御楽しみ遊すだけでございますもの」
「まことにねえ」
子爵夫人は掌の上でだんだん冷える珈琲を飲もうともせず溜息をついた。
「近頃は万事むずかしゅうございましてね。打ちあけたお話が、私共の致すことは若い人にはよかれと存じても気に染まないらしく見えます。それでも、まあ晨子のことは幸い日下部さんのお肝煎《きもいり》でどうやら安堵出来そうでございます。本当におかげに存じておりますよ」
「それどころでございますか」
みや子は力強く対手の感謝を遮った。そして、自分の言葉がまるで土地売買にでも関するようだということには全然心付かず話を進めた。
「及ばずながら日下部も出来ます限りお気風に合いますところと随分心にかけてはおりましたようでございますが……当節のお方はなかなか御註文がどちらもおやかましいものでございますからね。――それでも、晨子さまならばきっとお仕合わせでいらっしゃいましょう」
子爵夫人は、無邪気に然し淋しそうに微笑した。
「それがおかしゅうございます。晨子はもう西洋へ参ると申すのばかりが嬉しいものと見えましてね。……まるで子供のようでございますよ。彼方に参って役に立たないものは何も入用《い》らないなどと呑気を申しております」
彼女は、細そりした肩に片手を動して羽織のずったのをなおした。
「……親の心子知らずとはよく申したものでございます」
これに応えて、みや子が更に同感を示す溜意を吐《つ》こうとした時であった。
彼女は、
「ふふう、これは――」
という亢奮した良人の声を聞いた。見ると、日下部は何を見つけたのか、足より首が先に延びるという風で側棚の方に歩いて行く。子爵も続いて立ち上った。そして、男ながらしなやかな衣類の袖口からすこしも手首がいかつく見えない体を鷹揚に運びながら、至極満足そうに云った。
「さすが眼が早いな。――どうです? 実は君の鑑定を仰ぐ積りでわざわざ倉から出させたのだが……」
みや子は好奇心を動かされた声で、
「何でございましょう」
と傍の夫人に訊いた。夫人は、みや子を私《ひそ》かに苦しめている無気力の優美さで膝の上に置いた手の位置も換えずに答えた。
「きっと焼物でございましょう。――殿方はお娯《たのし》みも多くてお仕合わせでございますことねえ」
勢、会話は陶器と無関係な方向に流れた。彼女等はぽつぽつ近頃流行の婦人の水泳、乗馬、舞踏などの話をした。何を話し出しても夫人は、
「私共のようになりましてはねえ」
と微に眉を顰めるばかりである。到底全心を打ちこめない弱々しい殆ど退屈な会話の傍ら、みや子の注意は卓子の前にいる良人と子爵とに向けられた。二人の前には珍しい深紅色に光る皿が一枚出ている。みや子は、うっかり黙り込んだ自分を見出し、元気をとりなおして新たに話の緒を見出した。彼女は気候の話から、子爵夫人に旅行をすすめた。
「これから関西はさぞよろしゅうございましょうね。晨子さまの御仕度かたがたお揃いで京、大阪にお出かけ遊しませ。――よいお思い出でございましょう」
「それほどに致しませんでも、これで暫くところが変りますとね。当分はそれどころでもござりますまいが。――けれど、あいにくこれといって手頃な別荘もございませず……」
みや子は訝しげに夫人を顧みた。
「沼津の御別荘は――お手入れでいらっしゃいますか?」
「ああ、あれはもう昨年から参りませんのですよ。追々手離す所存でございましょう。小田原に小さい家がございますが、これはまた昨年の地震で滅茶になりましてね」
「さようでございましたか。……」
みや子は、何故か二三度せわしく瞬きをした。今迄ぼんやり部屋中を見廻していた彼女の瞳の奥に活々と集中した輝きがとぼった。彼女は愛嬌よく訊ねた。
「失礼でございますが、あの沼津の方はどなたかの御懇望でございますか?」
夫人は、ひとりごとのように説明した。
「いいえ、子爵の気まぐれでございます。まるで眺望がないから陰気でいやだと申しましてね。近頃おはやりの土地開放とやらの真似事でございましょう」
二人は声を合わせてそっと笑った。
「お宅では? 定めしいいところにあれでございましょう」
夫人はみや子に問いかえした。
「まあ私共などはそれどころではございません」
思わず地声で高く言ったみや子は、紛らすように顔をそむけて咳払いをした。彼女はむせたような、ややわざとらしい低声で云った。
「日下部も元気なようでも年でございますから、近頃はよく日曜にかけて気楽に暖い海辺にでも参りたいと申すのでございますが――矢張り手頃なところはもうちゃんと何方かがお約束でございましてね」
「本当に――お国元ももう少々近うございますとよろしいのですが」
みや子はやがて、空想に浮ぶ沼津の風光の美しさに我知らず恍惚《うっとり》したように呟いた。
「沼津あたりはさぞおよろしゅうございましょうねえ、上つがたのお邸さえございます位ですもの。――年をとりますと不相応な我ままが出まして、宿はどのように鄭重にしてくれましても何処となし落着のないものでございます……」
子爵夫人は、蒼白い気の優しい顔にぼんやり同情とも困惑ともつかない表情を浮べた。彼女は暫く黙っていたが程なく独言のように呟いた。
「若し……」
みや子の夫人に向った一方の耳はむくむくと大きくなって行くように鋭く次の言葉を待ち受けた。が、みや子は、凝っと何も心づかないらしい静粛を守って睫一つ戦かせなかった。夫人はつづけては何も云わない。みや子のうつむいた前髪はこの時彼方にいる良人に向って、
「今何か云い出してはいけませんよ。夫人は私共に大事なことを思いつけかけていらっしゃるのです」
と警戒しているように見えた。
三
婦人達のかたまっている長椅子から十歩足らず隔っていた日下部太郎は、彼女達の間に、どんな微妙な外交的黙劇が行われているか知るどころではなかった。
たといみや子が夫婦間の特別な敏感さを利用して熾《さかん》に暗号を送ったとしても、その時の彼は、頼りにならない無反応の冷淡さを証拠だてるに過なかったろう。何故なら彼はこの瞬間、N会社の取締役としての日下部太郎でもなければ、高畠子爵相談役としての彼でもなかった。ましてみや子の良人だということなどは念頭にもなかった。彼は心魂から根気よい、熱心
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