な情の深い古陶器愛好者となりきっていたのであった。
子爵と喋りながら、暖炉前のぽかぽかする場所から何心なく室内の装飾を眺めていた日下部太郎は、ふと側棚にある一枚の皿に目がとまると、覚えず眼を瞠って椅子からのり出した。天井から来る明るい燈光の煌《かがや》きと、大卓子の一隅からのデスク・ラムプの乳色を帯びた柔い光とを受け、書斎の高い※[#「木+解」、読みは「かしわ」、第3水準1−86−22、435−6]の腰羽目は、落着いた艶に、木目の色を反射させている。その前に、紫檀の脚に支えられ、純粋極る東洋紅玉のような閃きを持った皿が、一枚、高貴な孤独を愉しむようにゆったり光を射かえしていた。直径九|吋《インチ》もあろうか。濃紅な釉薬《うわぐすり》の下からは驚くべき精緻さで、地に描かれた僧侶の胸像が透きとおって見える。
これ程のものが今迄彼に見えなかったのは、偏《ひとえ》に彼の位置がわるかったからに違いない。日下部太郎は、感動を声に出して立ち上った。彼は高畠子爵が背後から何か云ったのを聞きしめる余裕を持たなかった。彼は側棚に近づくと、体をかがめ吸いつくように皿を眺めた。ひとりでに手をのばし、皿をとりあげると、表、裏、裏表と繰返し繰返し調べた。彼はそっと皿を元の台に戻すと、子爵に振向き、呻くように云った。
「珍しいものをお持ちですな。何処でお手に入りました?」
子爵の答えを待ちきれないらしく、彼は再び皿を手にとった。
「珍しい。こんなマジョリカが日本で手に入りますか。――いい艶だな」
日下部太郎は皿を調べながらだんだん独言のように呟いた。
「ふうむ。なかなか放胆な調子だ。しかも充分荘重で優しい」
彼は子爵に云いかける積りで大きな声を出した。
「この深紅の艶の下によく思いきって藍《ゴス》を使いましたな。ふうむ。――なかなかいい」
裏には、薄く琺瑯《ほうろう》のかかった糸底の中に茶がかった絵具で署名がしてあった。先の太く切れた絵具筆で無雑作らしく書いたM・Sという二つの頭文字と、上に一五四〇年という年代が記入してある。皿を掌の上でかえしながら、日下部は頭の中で模索した。
「M・S・と。――M――S――……何処かで見たな。この楽譜の始りに書いてあるような形のSは。――」
そういえば、彼には、表面の独特な模様も何日か何処かで見たことがあるように思われた。円皿に円形で区切った模様は平凡だが、この暗紅色マジョリカは、中央に濃い強い藍色で長めな心臓形を持っていた。その心臓形の中に僧の胸像は描かれているのだが、峻厳な茶色でくまどられた鷲鼻の隠者の剃った丸い頭の輪廓とその後にかかっている円光のやや薄平たい線とが、不思議に全体円い皿の形と調和を保ち、勁く効果多く藍色の心臓形を活かしているのだ。その囲りに軟く力をこめてうねうねしている唐草模様、あしらわれた二つの仮面も彼に初対面とは感じられなかった。幾年か前夢で見たそのままの姿が今はっきり現れて来たような気がするのであった。
皿に手が粘りついて離れないとでもいうように、見なおし見なおししているうちに、日下部太郎は突然啓示のようにM・S・という頭文字を持った陶工の名を思い出した。
Maestro Giorgio Gubbio
「グーッビョー! グーッビョーのジョルジョ!」
二つの文字を見たような気がした筈だ。二十年前、彼がヴィクトリア・アルバアト美術館の特別陳列室で、その前に佇んだぎり文字通り低徊去ることを得なかった素晴らしい数点の作者こそこのグーッビョーのジョルジョではなかったか。日下部太郎の老眼鏡をかけた顔には、歓喜と追想とがごっちゃになって照り輝いた。彼は皿を置き、情に迫った声で云った。
「思いがけないものを拝見した。失礼ながらこれ程のものがお手元にあろうとは思いませんでした」
彼はカフスの奥から純白な麻の手巾を出した。そして、眼鏡を脱し広い額やうるんだ眼を一どきに拭き廻した。
高畠子爵は充分の満足を湛えた落付きで日下部の傍に立ち、しっとりと重い袂をゆすって葉巻の灰を落した。
「それ程に買って貰えれば私も大満悦です。――これには一つ插話があるのでね」
子爵は皿についていたあるかないかの塵を指先でとった。
「日本にはまだ真物のマジョリカ、まして、ジョルジョの作なんか恐らく一点も来ていますまい。ざらな商人の手に負えないからでしょうな。これは一昨年|巴里《パリ》に行った時、羅馬《ローマ》まで遠征して掘り出して来たのです。
ほら、あのサン・ピイエトロからずうっと右よりに行った処にある万神殿《パンシーオン》ね、あの横通りをぶらぶら歩いているうちにふと穢い婆さん一人で店番している処で見付けたのです。――勿論羅馬に行ったのも、その蠅の糞だらけの飾窓に怪しげなマリアの木像と並んでいる皿が目に止ったのも悉く偶然です。見るとどうもただものでない。下等な婆さんが戸口の腰架で豆か何かむいているのに出させて見ると、全く驚きました。いい塩梅に巴里を出る少し前或る有名な蒐集家の所蔵品を見ていたので大体の見当はついたわけなのです。が、さて価を訊く段になるとね。ハハハ」
高畠子爵は、思い出しても愉快そうに笑いながら、彼として稀しい多弁で話しつづけた。
「あの心持は今考えてもおかしい。出さきだから持ち合わせはすっかりはたいても高が知れているのですからな。実にこわごわ訊いた訳です」
「いやその心持はよくわかります。欲しいは欲しいが、さて、というところ。然しあれも一寸いいものです、ふうむ、それで?」
日下部太郎は、先刻から熱心に皿を見なおしながら合槌を打った。
「訊いて却って反対の意味に驚いた。婆さんは私の風体を頻りに見上げ見下しして余程吹いた積りらしいのだが、それがまるで嘘のような価なのです。私は単位の違いかと思って念を押す。婆さんは高価すぎるというのかと思ったと見え、まるで私には通じない南方訛りで夢中に説明するのである。たった一つの店の飾だとか、美しい、珍らしい美術品という位の単語が私にわかる総てだ。私はまた誰かもっと確りした男でも帰って来て、いやその価では渡せぬとでも云われたら事だ、というだけの金を払ってさっさと抱えて来てしまったのだが」
子爵は湧き上る微笑を禁じ得ず、手入のよい短い髭を動かした。
「婆さんは、ただ紅くキラキラするから奇麗だ位に思っていたのでしょう。……巴里で二三の人に見て貰ったが、幸い贋物ではなかったようです」
この時、日下部太郎は皿を見ている眼の裡に困ったような淋しい光を宿した。長い子爵の話の間、一層詳しく釉薬や図案やを調べた彼は、子爵が楽天的な結論を下した丁度その時、心の裡でそれとは全然逆な推断を持ったのであった。彼には一見真物に紛うこのグーッビョーの皿が、どうも贋物らしく考えられて仕方なくなって来たのであった。
話のうちに、日下部太郎の記憶にはありありとヴィクトリア・アルバアト美術館で見たジョルジョの円皿にも、殆どこれと同じ模様がついていた事実が甦って来た。ジョルジョ程の名工が一生に同趣向の作を二つも遺すことがあり得るだろうか。疑なく図案は警抜といえた。或はジョルジョ自身ひどくこの作を愛し、身辺に置いて眺めようと更に一つを作ったのであろうか。土の古さ、色調、艶の落付きは時代ものには相違ないが、疑問を以て見ると日下部太郎は、皿に描かれた一五四〇という日附を素直に巨匠ジョルジョの名と結びつけ難くなって来た。うろ覚えの年代をさぐると、ジョルジョ自身作を遺したのは千五百年代位までではなかったろうか。
彼の考を総括すると、この紅色釉薬のマジョリカは、高畠子爵の掘り出した世界的逸品か、或はただの贋物、ジョルジョ没後工房の誰かが師の作を模造したに過ぎないものか、二つに一つということになるのである。
日下部は、高畠子爵の折角の幸福感を傷つけるに堪えなかった。同時にもっと深く研究する必要があるので、彼はモーニングの衣嚢をさぐり、小形の備忘録をとりだした。そしてスケッチする許を求めた。
「おかまいなければ、一寸形だけ書かせていただけますまいか。描いて置いて思い出した時見なおすと愉快なものです」
日下部は、だんだん社交になれた人づきよい捌けた声の調子と態度とをとり戻し、子爵にそこここ、備忘録の頁を繰って見せた。
小さい紙面には、万年筆で濃淡をはっきり達者に、盃台、花瓶、油壺などの写生がしてあった。中には子爵自身もその実物を見たことのある和蘭陀《オランダ》青絵の鉢もあった。
「ほう。――君のはほんものの研究だな。さしずめこれは名誉表《オナラブルリスト》というわけですか」
彼等は程なく、元の煖炉前の席に戻った。けれども、日下部太郎の眼は、制せられない力で、側棚の方へちょくちょく吸いよせられた。少し離れて見ると、真疑不明のグーッビョーの皿は、いうにいわれない深い美しさで暗紅色のくすんだ釉薬を輝やかせる。――
子爵は日下部の牽きつけられた顔から彼方の皿へ眼を転じて云った。
「余程興味を唆ったと見えますな。――私も思いがけないことでこの皿一枚兎に角自分の力で救い出したと思うと悪い気持もしません。まあ私の腕で世界の文明に貢献らしいことの出来たのは、後にも先にも、このグーッビョーの皿一点というところかな、ハハハハハハ」
天性の感情と、先刻自分の与えた賞讚の手前日下部太郎は、穏やかに相手の言葉を受けた。
「いや、皿一枚といっても意味があります。何しろ昔の名工の作は、減ることがあっても永劫殖えることはないですからな、真物なら破片でも大切です。私も、これで、もうちっと金があると本当に会社なんか廃めちまって理想的美術商になりますな。世界の隅々を廻って歩いて思いがけない処から思いがけない逸物を掘り出す愉しさは、考えただけでもぞくぞくする……然し」
彼は、滑稽に凋れて歎息した。
「悲しいことには金もなし、第一妻君の許可が出そうにもありません」
「ハハハハ。その許可ばかりは君の方から出させたくもなしだろう。ハハハハこれは愉快だ。――奥さん」
子爵は体を捩って、長椅子の婦人達に声をかけた。日下部太郎は、これに応えて向けた妻の笑顔が、いかにも儀礼に強いられたものであるのに、一向気付かなかった。彼は、辞し去る間際に迄、
「一寸。――お前先に……」
と云って側棚の前に立った。瞬間を惜む彼の瞥見に、疑問のジョルジョの皿は更にまじまじと、底深く煌く紅玉色の閃光で瞬きかえした。
四
自動車は、ヘッド・ライトの蒼白い光で、陰気に松の大木が見え隠れする暗い濠端に沿うて駛《はし》っている。
外界の闇や動揺に神経が馴れると、日下部太郎は忽ち、見て来たばかりのマジョリカのことを考え始めた。
彼は人知れず自負している通り、多くの古陶器愛好家などが陥り易い、病的な所有慾には煩わされていなかった。彼は寧ろ寛大な観賞家であった。彼は自分の購買力をはっきり弁《わきま》えていたから、却って他人のところでこそ所謂世界的な名品を見たがった。そして、彼は、そのようにして見せて貰う逸品を自分のものひとの物という区別ぬきにして、心から愛し認め得る生れつきの朗らかさを持っていたのである。
けれども、その朗らかさには一面執念づよい愛好家の神経質が附随していた。彼は、自分の鑑識でよいと認め得ないものに対しては納得の行く迄帽子をとらない頑固さを持っていた。彼はN会社の事務室ででも、電車の中ででも、頭についた陶器のことは忘れなかった。絶えず心でその色や形を反芻した。そして或る期間経つと、何かのはずみで忽然彼自身の信念がその作品に対して明確に形造られるのであった。
彼は、時々恐ろしく凹凸な市街の道路で揺り上げ揺り下げられながら、衣嚢から先刻の備忘録をとり出した。そして、スケッチのマジョリカを見なおし、彼の謂う捏《こ》ねかたを始めた。
みや子は、黒絹の襟巻にくるまり、黙って暫く良人の手元を見ていたが軈《やが》て、
「あなた」
と呼びかけた。日下部は手帳に眼をとめたまま答えた。
「うむ?」
「高畠さんのところで沼津の地所を
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