開放なさるっていう話ね、御存じだったのですか?」
「ああ。山村がいつかそんな意志が子爵にあるらしいことを云っていた」
「――御相談役で責任がおありになるんではありませんか?」
 みや子は、子爵の応接間や書斎で喋った時よりはずっと強い、たっぷりした音声でものを云った。
「一向そんな噂は伺いませんでしたね」
 日下部は、面倒そうに云った。
「細かな事まで一々覚えていられるものか? いずれ相談会へ持ち出すだろう。――が、相談会そのものが今時、抑々《そもそも》愚の骨頂さ」
 車は、両側に明るく店舗が軒を並べた四谷の大通りに出た。呉服屋の飾窓の派手な色彩などが、ちらりちらりと視野を掠める。みや子は何か託つような調子で呟いた。
「もう私共も二つ位別荘があってもよい時ですね」
「ふむ。厄介だよ。息子共の巣窟にばかりされても堪るまい」
 日下部は手帳をモーニングの衣嚢にしまった。彼の望みはこの時ただ一つしかなかった。これは、一刻も早く家に着きたいという願であった。彼はせめて今夜のうちに、あのマジョリカの時代だけもはっきり調べて置きたく思った。
 然し、彼の心持を知らないみや子は、何故かひどく彼女の別荘話に執着した。彼女は数年前買い損った裾野の土地のことまで良人に思い出させた後、意味ありげな嬉しそうな眼付で云った。
「ね、あなた、今日のお話ぶりだと、沼津の土地というのを分けて戴けますよ」
「勿論貰えるさ」
 日下部は単純に解釈した。
「分けて貰えることは貰えるがあんな処仕様があるまい。海岸のくせに海から七八丁もあるんじゃあ」
「それは――買うのでしたらね贅沢も申しましょうけれど」
 彼は、急なカーヴで体を揺られながら怪訝そうに妻を見た。
「――買うならって――ただでとる気か? ハハハハ。お前らしい理屈だ。今時ただの地面などはアフリカの端に行ってもあるまいよ、残念ながら――」
 みや子は莞爾《にこり》ともせず、声を低めて熱心に囁いた。
「何でも冗談にしようとなさる! だから皆よい機会を失ってしまうのですよ。――高畠夫人がね、若しかしたら沼津の土地を無代で分けて下さっても好いお気持らしいですよ」
「へえ。――何のために? そんなことお前が当って見たのか?」
「まさか、不見識な。今度私共が晨子様のことで尽力してさしあげたお礼という意味に、先様でお思い付になったらしいのです」
 今までほんの座興的に話していた日下部は、この説明で真面目に妻の言葉を打ち消した。
「そんなことはある筈ないよ。またあったとしても俺としては受けられない」
「――それは勿論、始めから私共がそんな打算などはまるでぬきにしてお世話したのは先方だって万々御承知です。だからこそまた、そういう気にもおなりなすったのでしょう? 私は、若しそういうことになれば、素直に先の御厚意を受けるのが礼だと思いますよ、種々にひねくれて考えるのはこちらの心の卑しさを見せるようなものではありませんか」
「そうではないよ。ものには程度がある。自分が当然と思わない好意を平気で受けるようになっては男もおしまいだ」
「どうしてそうお思いなさるんでしょうね」
 みや子は、困じはてたような声を出した。
「あなたの忙しい体でわざわざ伊勢迄出かけて今度のことは纏めてあげたのじゃありませんか。晨子様のことでは皆それはそれは気に病んでいらしったのですもの」
「もうおやめ、そんなに欲しければ沼津に何処か見つけて買ってやる。貰う話だけはやめてくれ、俺は嫌いなんだから。……」
 日下部太郎は、家の門が見える位の処へ来た時、念を押し、みや子が、
「本当にお願いですから、高畠さんから何かお話があったら即答なさらないで下さいね。あなたは私が遊びに行きたがっているとでも思っていらっしゃるのでしょう。……母親は息子達の将来をいつも考えているものなのですよ」
と涙を含んだような声で云ったのをも黙殺した。
 玄関に降ると、彼は書生に、すぐ書斎の煖炉に火をつけることを命じた。
 彼は手早く着換えをし、高畠子爵のそれほど広大ではないが、小ぢんまりと充分居心地よい書斎の机に、大部の書籍を数冊とり出した。二月下旬の夜気は何といっても爪先にしみる。彼はそれをものともせず活気横溢した学生のような意気込みで、ジョルジョの作品年代を調べ始めた。直覚的な自分の推測と合致した記述に出逢うと、老いた若者は亢奮してデスク・ラムプの狭い光の弧の下で肩を揺り動した。執念深いみや子の別荘話も、一日の疲労も何処にか消えてしまった。日下部太郎は、燈火の朧《おぼ》ろな書斎の一隅で、古風な鳩時計が、クックー、クックーと二時を報じる迄、机の前を去らなかった。

        五

 翌日の午後、日下部太郎は昨夜の礼を兼ねて再び高畠邸を訪ねた。
 主人は留守であった。彼は夫人に通じて、もう一度疑問のジョルジョを見せて貰った。得たばかりの新鮮な知識を以て調べると、彼は自分の鑑別を肯定しない訳には行かなかった。昨夜通読した数冊の著書は一様にジョルジョの作品を一五三七年どまりと断定していた。どの本にもジョルジョが四〇年迄仕事をしたとは書いてない。何より大事な署名さえ、一層この場合不利な証明でしかなかった。何故なら、本当のジョルジョは、MSという二字の上に一つずつ、小さい水の泡のようなまるを描きつけた。この皿の銘のように、二つの文字の間に現代人のする通りの句切点を打つことは、決してなかったのである。
 愈々自分の見識で、この皿を贋物と判定してしまうと、奇妙なことに日下部太郎は、今迄とまるで異う一種の愛着が、この皿に対して湧き起るのを感じた。
 それは、明かに皿を憐れむ心持といえた。彼は工人の欲で、僅か一字か二字無くてよい漢字か欧字かが描き加えられたばかりに贋物とされる皿が可哀想であった。文字で汚されないうちは、兎に角それはまだ贋物ではない。巧拙の差こそあれ、それはそれとしての美と命とを享けている。柄相応に、観られもする。愛されもするだろう。ところが二度三度の余分な筆触で、陶器は贋物地獄に堕される。声が出せたら、陶工がさてと偽の署名をしかけた時、皿や花瓶は一斉に哭《な》いて拒んだだろう。
「やめてくれ、やめてくれ。どうぞあなたの名を書いてくれ」と。
 日下部太郎に皿は生きものであった。無抵抗な、而も情感をなみなみと内に湛えた一つのいとしい生物のように思われるのであった。
 窓際に佇んで、側棚に近より遠のき、飽きず眺める日下部の挙動を見守っていた高畠夫人は、彼の様子に殆ど「恋々」という形容詞があてはまりそうな何ものかが在るのに驚いた。
 次の日は、日曜であった。
 日下部太郎は来客で応接間にいた。
 みや子は居間の六畳で炬燵に当りながら、高畠夫人宛の手紙を書いていた。
 彼女は、無断で良人が昨日子爵家に行ったのを知ると、ひどく不安な感情に襲われた。彼女は、
「そう云って下されば私の名刺も持って行って戴いたのに……」
と良人をせめた。が、彼女の真の心掛りはそれではなかった。沼津の話はまだ自分と夫人との間に閃いた沈黙の感じ合に過ぎなかった。良人が言葉に出して何を云わないでも、昨日と今日、彼だけが夫人の目前に現れ、自分と夫人との心の糸を遮ったことは、みや子にこのましくなかったのである。
 彼女は、廊下で応接室に行こうとする良人を引とめて訊ねた。
「あなた、きのういらしったとき沼津のこと何ともおっしゃいませんでしたろうね」
 彼は、立ち止ろうともせずに云った。
「云えるものかね」
 けれども、彼女は気がすまなかった。彼女は居間に来て榛原の書簡箋を繰りひろげ、芳しい墨をすり流した。そして徐ろに一昨夜の礼から、筆をかえして今度の慶び、人の親の心、自分達の誠心を書きすすめた。彼女は調の高い自分の文章に酔った。彼女はいつか自分がこれを受取って読む高畠夫人の身にまでなり、眼をうるませて筆を運んだ。
 丁度みや子が本文を書き終り、ほっとして、長い巻紙の端を手にとりあげた時であった。彼女の背後の襖の外で書生の声がした。
「奥様」
「――あけておはいり」
 書生は鳥の子の襖を肩幅だけ開けて、一つの到来品を書状ぐるみさし出した。
「今高畠様からお使いがこれを差上げてくれと申しました」
「へえ……高畠さんて――」
 彼女は腑に落ちない面持で封書の裏を見た。高畠正親とある。みや子は理由の分らない不安にせかれて封を切った。処々とばして読んだ文面によると、例の皿は余程お気に適ったと推察する。昨日もまたわざわざ御入来の由を妻から承った。先般来晨子のことでは一方ならぬ御配慮を煩し、何かと心がけていたところ、図らずあの皿がお目に止ったようだ。自分等夫妻の感謝の微意を表すには、この皿を貴下の優秀な蒐集の一部に加えるのが最も適当だと思われる。何卒飾棚の一隅に席を与えてくれるようにというのであった。
 みや子は、持っていた筆の軸で無意識に額の隅を掻いた。彼女は俄に気の抜けた風で、
「お使は待っているのかえ?」
と物懶《ものう》げに訊いた。
「はい」
「ではね、旦那様に失礼でございますが一寸って――
 廊下にどかどか跫音を立てて日下部が入って来た。
「何だい?」
「今こんなものが参りましたよ。何とか云ってあげなければいけますまい」
「どれ」
 彼は気のせく中腰のまま子爵の手紙をとりあげた。読むうちに、彼の顔はぱっと火のように赧くなった。彼は、どっさり片膝をつき、いそいで包を解き、箱を開け、つめものの綿をとりのけた。中には白羽二重の布につつまれ、あれ程心を労させたグーッビョー。彼ばかりが贋と知るジョルジョの円皿が、紅玉釉薬の艶も静に入っているではないか。日下部太郎は皿を手にとり、説明出来ない複雑な表情を浮べた。炬燵布団にぐったり頬をもたせ、眼の端から良人の仕業を見ていたみや子は、深紅色の珍しい皿の耀《かがや》きに頭を擡げた。彼女は良人に注意した。
「あとで悠《ゆっ》くり御覧になれるのだから御返事だけは早くなさい」
 彼女は、今の今まで熱心に書いていた高畠夫人宛の手紙をすーっと鋏で剪りとった。そして筆をしめし良人に持たせた。
 日下部太郎は、非常に高畠子爵に気の毒を感じた。子爵が贋などとはまるで思わず珍蔵していたこの品を、自分にくれようと思いきるには余程の決心がいったろう。彼にそんな決心をさせた原因は、世間に有り触れた媒酌という一つの行為にすぎない。日下部はその親心を身につまされて感じた。同時に、自分が二度も折り返して観せて貰ったのは、ただ自分の研究心の満足のためばかりであったことや、いずれ、これが真物ではなかったことが子爵の耳にも入るに違いない時のこと等を考えると、彼は寧ろ痛み入った気持になった。彼は丁寧な、真心の籠った礼手紙を書いた。彼は自分で玄関まで出、待っている使にそれを渡した。
 十分ばかり後、客を送り出して居間に来て見ると、みや子は箱を出したまま、奉書や水引の始末をしていた。
 彼女は良人を見ると不平そうに云った。
「箱書も何もありませんね」
 彼は胡座をくんで、箱の蓋をとった。
「西洋のものだから箱書はないさ」
「いいものなんですか?」
「さあね」
 日下部は陶器に関してだけは妻に出鱈目を云えなかった。勝気なみや子は大抵のことは自分の頭で真偽を判断することを主張し、且実行していたが、陶器は例外であった。彼女が素直に自分の意見を棄てるのはこの一事ばかりとも云えた。従って、日下部は嘘を教えると、自分が何時何処でどんな冷汗を掻くまいものでもない危険が伴うのであった。
 彼は、淡白らしく云った。
「極上というものではあるまいね」
「何処です?」
「伊太利《イタリー》――」
「――一体真物なんですか?」
 みや子の詰問するような語勢に、日下部は微な不快を感じた。
「兎に角古いことは相当古い。然しまあ珍しい一つの標本と思っていれば間違いない」
「あなたそんなにお賞めになったんですか、贋物と知っているくせに? 気の弱い方ね。いいだろうと云われると悪いとおっしゃれないのだもの」
 彼女は皮肉な調子で呟いた。
「この頃は華族様でも抜目は
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