ら。……女の名だったけれども男よ」
「何かなんだろう?」
「そうだわ、きっと」
「――じゃ、帰る処はあるじゃあないか」
 二人は又黙り込んだ。
 卓子の上のスタンドが和らかな深い陰翳をもって彼の顔半面を照し出した。彼方側を歩いているさほ子の顔は見えず、白い足袋ばかりがちらちら薄明りの中に動いて見えた。
 十分ばかりも経った時、さほ子はやっと沈黙を破った。
「それじゃ、私斯うするわ。ね、貴方はこれから何処かへ転地なさるのよ」
「え? 誰が?」
「貴方が転地をなさるのよ」
 さほ子は、頭の中から考えを繰り出すように厳かに云った。
「お医者に云われたことにするの。私も一緒に行かなければならないから、留守番が入用《い》るでしょう? あの人じゃ、独りで置けないわ。ね。だから、れんを又呼んで、代って貰うことにするの」
「ふうむ」
 彼は、脚を組みかえ、煙草をつけた。
「其那ことを云わなくたっていいじゃあないか。駄目なのは駄目なんだから」
「――だって。じゃあ何て云うの。いきなり駄目だって云うにしろ、弱そうだからとも云えないし、辛そうだからとも云えないし。――そうでしょう? あの人全体少し何だか工合
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