あっては、結局萩原氏の詩論の心的・社会的因子にまでふれないと、読者にはぴったりと来ない。「新日本文化の会」のメムバーとしての詩人萩原朔太郎を観察しなければ詩論の特徴もつかめないのである。
明治・大正にかけて日本の代表的詩人であった人々が、今日老大家としてどのような社会勢力の側に身を托しているかという事実と、今日の日本の詩のありようと、芸術的内容とは切りはなして語ることは出来ない。
落首というものは、古来、愛すべき民衆の集団的発言の形式であったし、零細な、鋭い可能性把握の一例であった。先達っての選挙のとき、無効になった投票に多くの落首めいたものがあったという噂も、文学の問題としてやはり見落せない事実なのではなかろうか。
森山氏は「日本の詩はどうなるか」という論文の結論で、将来自由律の口語詩が「思想的な文学の、より自由な開花が社会的に保証さるべき時代に於て著しく発展するだろう、という予測」を示している。
詩の社会的位置という国際ペンクラブの一課題から入るだけでさえも、われわれの周囲の文学的現実はこのように複雑であり、よせる波、かえす波に揉まれている。日本ペンクラブの代表がどのように
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