今日及明日の文学における集団の発言方法及その可能性というCの問題も、いろいろと身につまされる。詩というものが今日の現実社会状勢中どのような位置にあるかというD問題と不可分に連関している。詩は歌謡との結びつきで、文学の形態としても一番集団の感情、意志表示に便宜であり、その性質から実に端的に率直に、詩の社会的性格や詩の背後にある集団の表情、身振りが現れて来ている。琵琶歌は昔の支那の詩形によっているものであるが、今日、それは勇壮活溌なる日本文化の華として、廟行鎮の武勇歌などに奨励され、中国では世界及東洋文学史の上に一つの足跡をのこす「われらは鉄の隊伍」の歌となって出て来ている。日本詩歌の形として自由律の意義とその将来について森山啓氏が八月の『日本評論』に「日本の詩はどうなるか」という論文を書いている。この章は詩の形式と韻律の専門的面にかぎられて考察されているのであるが、例えばその文中で萩原朔太郎氏が「日本人の民族的感情から」反省して「しらべ」「すがた」「もののあわれ」等の内面的旋律までを考えて日本古来の詩形を不朽な規範と考える態度に対して筆者の行っている理論的究明も、今日の現実の錯綜の中にあっては、結局萩原氏の詩論の心的・社会的因子にまでふれないと、読者にはぴったりと来ない。「新日本文化の会」のメムバーとしての詩人萩原朔太郎を観察しなければ詩論の特徴もつかめないのである。
明治・大正にかけて日本の代表的詩人であった人々が、今日老大家としてどのような社会勢力の側に身を托しているかという事実と、今日の日本の詩のありようと、芸術的内容とは切りはなして語ることは出来ない。
落首というものは、古来、愛すべき民衆の集団的発言の形式であったし、零細な、鋭い可能性把握の一例であった。先達っての選挙のとき、無効になった投票に多くの落首めいたものがあったという噂も、文学の問題としてやはり見落せない事実なのではなかろうか。
森山氏は「日本の詩はどうなるか」という論文の結論で、将来自由律の口語詩が「思想的な文学の、より自由な開花が社会的に保証さるべき時代に於て著しく発展するだろう、という予測」を示している。
詩の社会的位置という国際ペンクラブの一課題から入るだけでさえも、われわれの周囲の文学的現実はこのように複雑であり、よせる波、かえす波に揉まれている。日本ペンクラブの代表がどのように
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