、例えば昨今のスペイン、中国、ソヴェト、日本、ドイツ、イタリー等の文学の歴史を人類的な規模で正確に把握するために、欠くべからざる条件である。大会は、この一項だけに触れて見ても、最も文学精神の機微にふれたしかも強靭な活動の必要の自覚を各国のペンクラブに求めているわけである。
 H・G・ウエルズが一九三四年にモスク※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]を訪ねた時、むこうの作家たちにベルリン、ウィーン、ローマの各ペンクラブが、どんなにファシストの文化政策に対して「文芸の自由と品位を保持するために」たたかったかということを語っている記事を、『セルパン』の八月号で読んだ。
 そもそもペンクラブというものが、文筆にたずさわる人々の親睦機関から今日のように文化的により深い意味と活動とを行うようになったのは、ドイツでユダヤ系の作家、左翼作家を迫害して、ベルリン・ペンクラブを強奪してナチの宣伝に利用しようと企てたことからであった。そのことを、明瞭にしている点では他の部分に問題をはらんでいるウエルズの話も誤っていない。彼は「わが貧弱なペンクラブ」がトルラーのために起ったことを誇っているのである。
 日本代表の有島氏は、ヴェノスアイレスの第十四回大会へ島崎藤村氏と共に出席したのだから、恐らくこの一年の間に世界の空気がどのように動き、対立する気流はどのように深化したかを、些かは身に添えて感じていられるであろう。日本における外国文学翻訳の現状、プラーゲ旋風の不当、日本翻訳家協会設立等について各国代表の理解が求められたそうである。文学作品ではないが「新しき土」に対する日本の有識者間の批評とドイツの批評との間に横《よこたわ》るグロテスクな現代的矛盾についてなど若し一事実として報告的にふれられることが出来たら、それも各国間の批評の交換と国際的な芸術批評の水準引あげに役立つのではなかろうか。
 定期刊行の雑誌のようなものがペンクラブによって国際的に発行されることも、文学に携るものにとって大きいよろこびであり、資料となるにちがいない。国際ペンクラブが世界各国から、それぞれの国及その植民地で発売又は輸入を禁ぜられている書籍目録を集めて、それを統計的に研究し、一般の常識に判断を求めることも必要であろうと思う。そういう逆な面から、かえって雄弁に一国の文学や批評のおかれている事情が推察され得るのである。

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