プロレタリア文学というものの包括し得る領域が、今日は非常にひろく複雑な内容に於て理解されて来ている。これは当然そうあるべきことである。それと同時に、左翼運動全般が退潮していて、間接な意味ででも一定の方向とか規準とかいうものが明瞭にあらわれていない。しかも、文化面だけでも社会の対立を意識する心にはそれが鋭く感じられる時期であるから、この三つの事情は相互に絡み合いその上外部とのめり張りによって局部局部では凹凸がはげしく、今日ほどプロレタリア文学の内容が雑多、複雑であったことは嘗て過去十何年間になかったであろうと思う。
 昔、文学の領域でアナーキズムとマルクシズムとの論争が旺んであった時代は、プロレタリア文学史のことで最も紛糾した頁をなしているのであろうと思うが、それは性質において今日プロレタリア文学内に交流し渦まきその頭や尻尾が見えつかくれつしている諸要素とは大いに違っていたと思う。昔は、何かの形で、当時としては発展的統一に向う過程の攪拌作用として生じていた。今日のプロレタリア文学内に包括されている諸要素は果して簡単に、プロレタリア文学の健全な発展のためにより多くの可能を齎《もたら》すものであるとだけ云い得るかどうか。
 プロレタリア文学の着実な日常性、大衆性というものの本質は、小林秀雄氏等によっていわれている大衆性とちがい、武田麟太郎氏がいう日常性と違ったものであり、プロレタリア作家は自身の生活と文学とでその相互をはっきりと描き出してゆかねばならないのであるということが、どの程度に鮮やかに感覚されているであろうか。
 運動がなく、全体的な目じるしがないのだから、プロレタリア文学におけるプロレタリア性とか、プロレタリア作家が自分から自分の中に確認しようとするプロレタリア・インテリゲンツィア性というものも、とかくその人々の主観によって色づけられ、評価される危険が伴っている。何故なら特別な一部の人々を除いた大多数の読者は、読者自身何もはっきりとした判断のよりどころというものを持っていないのであるが、漠然この現実とブルジョア文学だけではあきたらぬ心持を托して読むのであるから、一方からいうとプロレタリア文学は今日些細なプロレタリア風な薬味を実は添えているだけであっても、読者から叱責され、或はきびしく批判されるという心配なしでやって行ける事情におかれている。
 プロレタリア文学が
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