プロ文学の中間報告
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)須《すべから》く

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三七年四月〕
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 プロレタリア文学運動が一九三二年以来次第に運動として形を失って来たにもかかわらず、プロレタリア作品とよばれる作品は今日やはりずっと書きつづけられており、決して消えてしまってはいない。
 これは、なかなか面白い観察されるべきことであると思う。芸術の各分野で文学が(中でも小説が)社会の現実を最も直接に反映し、再びその作品の芸術的効果において社会感情の裡に作用しかえしてゆくという特徴が、どんなに根づよい事実であるかということが考えられる。文学運動の形として団体だのサークルだのというものはなくされたが、私たちの毎日の実際生活の様々の悪感情、公平ならざる事情、この人生の動きかた、動かされかたに人間として疑問をもたざるを得ない諸事情というものは、経済上・思想上の自由がきりつまるにつれて、却って人々の心に意識されて来る。何かそこに方法を求め、何かそこに解決の可能についての見とおしを欲する感情が流れている。プロレタリア文学は、作者のそういう現実の生活感情が底潮となっているために、作品としてやはり人々の心をひく何かを含んでいるのである。そして、大局的に眺めわたせば、現代の紛糾と困難を縫って猶プロレタリア作品が生れざるを得ない社会の現実の姿が浮上って来るのである。
 或る人々は、プロレタリア作品がこのように内包しているプロレタリア性というものに我から全幅の信頼をかけ、その仕事にたずさわっている自身をも比較的手軽くプロレタリア・インテリゲンツィアという風に規定して、自分たちがそのようなものであり、プロレタリア文学の本質が左様なものである以上、現代のような事情の下では、須《すべから》く闊達自在にふるまって然るべしという見解を、今日示している。
 闊達自在であり、そのように生活し創作することを希わないというような人間が、この世に在り得るだろうか。誰しもそれこそのぞましい事情と思うのであるが、闊達自在という文学を頭の中で、或は感情の中で、描き想い翹望することと、今日の現実の社会関係の下で、プロレタリア作家が、闊達自在に生きるということとの間には、種々微妙なものが横わっている。
 
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