まとまった運動としてあった頃は、その仕事にしたがう人々の出処進退というのは、文学の本質が必要としている方向の上から、全般的にとりあげて吟味されたし、読者もそういう点ではプロレタリア作家の現実社会での身の処しかたと作品の評価とを一致させるべきものとして観ていたし評価した。今日ではこの点もゆるんでいる。一人一人のプロレタリア作家がブルジョア作家と同じような切りはなされ方で観られ、あの人はああ行動し、この人はこう生きている、という現象だけ漫然眺められている。プロレタリア文学者として云々という我にもひとにも通じる目安が、ぼけている。文学の仕事は、個性的なものであって、それぞれの作家は自分の足でだけ自身の道をプロレタリア文学の大道の中にふみわけてゆくのではあるが、プロレタリア文学者とブルジョア文学者との間には、例えば谷崎潤一郎と志賀直哉との間に在る作家的相異よりはまたおのずから異った質の違いというものがなければならないはずなのである。そして、これらのすべてのぼやけた、便宜主義的なものは、読者も作家も等しく今日の大衆として置かれている低さからあらわれたものなのである。
 プロレタリア文学者が、ものを否定的にばかりいいたがるということが、小林秀雄、河上徹太郎氏その他の同傾向の人々からいわれたし、今も、これからもいわれるであろうと思う。一般の読者の中には、現実生活の重苦しさにげんなりした心持をプロレタリア文学の闊達と称せられない有様に結びつけ、その評言を当っているように思い、つづいて昨今青野季吉氏によっていわれている闊達自在論をそれなりによしと感じるひとがあるかも知れない。けれどもよくよく考えて見ると、プロレタリア作家が否定的にものを見るということは全く相対的な関係のもので、大衆生活の要求している積極的なものをいうためには、その反対物として提出されているものに対して先ずそれを否定し、何故にそれが否定されなければならないかを明かにしなければならないのは、誰の常識でも理解されると思う。
 例えば増税、物価騰貴に対して大衆は、先ず否定的な感情をもたざるを得ず、その表現は自然否定的な形から入って行く。文学では近頃日本的なものが云々されているが、私たちが日本人であり、しかも最も日本語というものの内容表現と密接に結ばれている日本の作家である以上、どうして日本的なものを否定しよう。逆にいえば、日
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