た。彼女が海の彼方のブルジョアの国に居候しながら、革命の悪口、ボルシェビキの悪口を云っている間に、ソヴェト権力は鎖をすてて立ったロシアのプロレタリア、農民、働く人民の政権として樹立された。
新しい燃ゆるような社会主義の生活が開始された。そろそろ文学活動をはじめていた婦人作家達は、どんな工合に、人類にとって偉大なこの歴史の転換期を経験しただろうか。
ソヴェト同盟の婦人作家(下)
興味のあることは、これら数人のソヴェト同盟の婦人作家たちが、一九一七年までは、殆んど誰も革命的な政治活動に直接関係していなかったことだ。
ただ一八八八年生れのシャギニャーンが一九〇五年の革命の時、中学校の八年生で、学生委員会の代表をやったことを、短い自伝の中に書いている。(ゴーリキイは一九〇五年一月十九日の血の日曜日について「一月十九日」という記録をかいている。ゴーリキイはこの頃次第にロシア・マルクシストの団体に近づいていた。)
「十月」にまで高まりつつあったロシアの人民の革命的発展というものに、大して密接な関係なく、彼女たちの或るものは小学校女教師として暮し、或るものは田舎の町の女優、作家として暮していたわけだ。
だから、一九一七年、ケレンスキー内閣の崩壊。ボルシェビキのソヴェト政権確立と、火花を散らす大変革がおこった当時、党指導部に参加していたり軍事委員の内部にあってプロレタリア革命の時々刻々の推移を見たという婦人作家は一人もいない。わずかに評論・報告集二冊をのこして一九二五年ごろ死んだラリーサ・レイスネルがある。レイスネルはレーニングラード大学教授の娘であった。家庭の革命的雰囲気のうちに育って「十月」が来たとき彼女はパルチザンの政治指導員であった。一度も「疲れた」と云わない美しくて若い婦人指導者として知られていた。ラデックの妻であった。ラデックが「十月」にもう反革命の組織者の一人であったことをラリーサ・レイスネルは知らないで死んだ。
アンナ・カラヴァーエ※[#濁点付き片仮名「ワ」、1−7−82]は率直に書いている。「十月革命は私の精神に途方もない擾乱と動顛を与えた。」
構成派の影響を多分にうけ、詩集や短篇集を出版していたベラ・インベルは、「十月」が世界的な、震撼的な出来事だということは理解した。が、彼女はどんな大衆的行動にも、歴史的な市街戦にも参加しなかっ
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