もちこむ異国趣味は、直に民族主義の武器としてつかわれるものだ。なぜなら、支配権力がヤイヤイいう民族主義の目的は、結局において日本人は日本人! 中国人は中国人だ! と、一つの条件的事実だけをさも決定的なものらしく全面にひろげて強調し、各民族間のプロレタリア・農民としての世界的連帯を切ろうとするところにある。中国は中国、日本は日本、をファッショの立場から主張する文化的下地を最もよくつくるのは、国際的主題によるらしく見えるブルジョア民族主義文学だ。
 ブルジョア勃興期に、ブルジョア文学の異国趣味は植民地発見熱の反映として現れた。没落期に入ると一緒に、それは享楽的なブルジョア文化の消費者の猟奇癖をたんのうさせるために役立ち、急テンポに侵略的帝国主義のデクになり下りつつあるのだ。
 群司次郎正という大衆作家がある。彼はよみ物提供の種をさがしに、異国情調、国際的背景を求めてハルビンへ出かけていた。すると、奉天のパチパチが起って、あの辺一帯が大騒ぎになった。(追記・日本軍部による張作霖の爆死事件につづく侵略)
 異国情調を求めて来ていた群司次郎正は一躍、「ハルビン脱出記」の筆者となった。文中何というかと思うと「支那人の心情は根本的に獣である。これをよく知っているのはロシア人たちである。かつてハルビンが帝政華かなりし頃はロシア人は支那人を鞭で打ってキタイスカヤ街のような通りはこの野蛮人を通らせなかった」(!)
 奉天にパチパチの起ったことについて日本帝国主義に内在する経済的・政治的理由も眼中に入れていない。彼は無智な軍用ペンをふるって、ブルジョア異国趣味から狂気的民族主義へ飛躍しているのだ。
 この実例だけでも、ブルジョア文学の領域内で、異国趣味を基礎とする国際主義は民族主義の泥沼にはまってついにファッショ化するものだということが十分明瞭に示されている。
 資本主義のイデオロギーはそれが必然の過程として植民地搾取を包含する帝国主義イデオロギーである限り、本質的に「インターナショナル」は理解し得ないものなのだ。

          三

 ところで、ではプロレタリア文学は国際的展望において民族性の問題をどう取扱っているだろう?
 決して、それをブルジョア文学におけるように最後の決定的なものとしては認めない。階級的インターナショナルの闘争を強固にし、その連帯的活動を活々させ、より効果
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