プロレタリア美術展を観る
宮本百合子
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(一)[#「(一)」は縦中横]
ほんとは一時間半もあれば充分見られるだろうと思って行ったのだ。ところが面白い。帝展なんかみたいに素通りということはとても出来ない。おしまいには鼻を押しつけるようにしても、もう見えない程暗くなって仕舞った。
今度の展覧会はビラにも印刷してある通り第三回目だ。一回二回は自分の知らないときに、種々な困難を克服して開催された。自分としては、だからはじめっから今日までの日本におけるプロレタリア美術展の発育を比較することは残念ながら出来ない。
だが、この会場に漲る活気と画題のまやかしでない現実性とは、実に興味深いものがある。第一室にある数枚の絵を見ただけで自分は感じた、――日本のプロ美術家はやっぱりうまい! と。
世界の一般プロレタリア芸術運動は、いつでもすでに革命を経験し、社会主義社会建設期に入っているソヴェト・ロシアを先達として認めて来た。理論と技術の上で多くのものをそこから学びとったし、未来に学ぶとるだろう。しかし一九三〇年における日本のプロレタリア美術展の作品が、主題としてソヴェトにあるものとは違う、市電争議を、農民の階級闘争を捕えて来ていること、ビラ張り、集会等、労働者の日常闘争を表現していることは正しい。革命十四年目にあるソヴェト・ロシアの絵は、勝利したプロレタリアート管理の下に拡大されつつある生産を(特に五ヵ年計画によって)農業の集団化を記念碑的に表現している。白色テロルと戦いつつある日本の上野におけるプロレタリア美術展の画は、日常闘争の報告と、階級意識への熱心な呼びかけをもってる。当然そうあるべきことだ。
(二)[#「(二)」は縦中横]
ところでもう一つ、総体的に興味を感じたことは、陳列されている画が一種型にはまらぬ柔軟性を持っていることだ。描き手が若い人々で、ブルジョア美術の伝統によごされてないということが一つの理由。技術の素朴さから来る瑞々しさもまた理由の一つ。もし、技術の素朴さからだけいえば、ソヴェトの若き人々の技術だって充分素朴だ。しかし、総体の印象をつかんでいう場合、画面から来る感じ
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