フェア・プレイの悲喜
宮本百合子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)咄嗟《とっさ》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地付き]〔一九三九年七月〕
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私の不幸というものについて書くように云われると、何となし当惑したような咄嗟《とっさ》の心持になるのは、私ひとりのことだろうか。世間で、不幸という言葉に対して幸福という形容で云われている、そういう生活が決して私の毎日にあるわけではないのだが。それどころか、こうあったらと思う生活とは随分ちがった暮しだと思う。たとえば、誰にしろ、愛している者とは一緒に暮したい。同じ貧乏もするならば二人でしたい、どんな妻だってそう思っているであろう。そんなことも私たちの毎日の実際としては出来にくいことの一つとなっている。又、一人の人間、女として力の一杯が生かされ得る可能において、成長し得る限りの成長をとげて見たいという切実な願望を、私たちは皆それぞれの形でもっていると思う。人間生活の豊富さにふれ、自分の生涯もそのために役立っているという歓びに生きることを希っている。私としてはその一つの道が文学にあるわけだけれども、今日の世界が面している多難さは、私たちの日常生活のごく細かいところまでその波をうたせているから、現実の様々の錯綜した条件から、そのような願望も実現には少なからぬ困難を経ている。
お喋りの間に笑い笑い云えば、私がこう丸まっちいのも不幸の一つね、と云えるようなものだが、真面目に人生の心持としてとりあげて見ると、私たちの生活を充たしているどころか寧ろその上に、その間に毎日が営まれていると云える程の不如意、願わしくない事情、困難を、それとして十分認め、或る場合それに拉《ひし》がれることをも率直に認めつつ、しかも、それ等が私の不幸と固定したものとなって、生活感情にかたまりついていないというのは、面白いことだと思う。
私たちの生活の現実の裡には、今日の社会が複雑であるだけ極めて複雑ないろいろの関係が織りこまれているのだから、それらに対する私たちの生きよう、受けよう、働きかけようで、条件から引き出されて来る結果はいくつかに分れると思う。幸福、不幸という生活の概括のしかたは、今日では益々比喩的な言葉というか、チラリと生活の波に照る言葉で、固定してそれが生きてゆく心の土台となるよ
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