じたのであろうか。

 無責任な幾多の伝記者は、ここであの犬の插話を思い出し、ナイチンゲール嬢の天使の心を描き出すのであるが、現実はもっと強力複雑な動機を時代の空気としてもっていた。その事実は、私たちにとってまじめに理解されなければならない。フロレンスが、物心づいて世の中を眺めはじめた一八四五、六年代は、イギリスがヴィクトーリア女皇の統治の下に近代社会として未曾有の発展をとげた画期的な時期であった。商工業の急激な進歩、産業界全面の革新は一方に大英国の富をつみ上げてゆくと一緒に、その大都会の他の一方に猛烈な勢いで貧民窟と救民院の無力な活動と犯罪率の上昇とをうみ出した歴史的な一時代であった。心あるイギリス人は、この富と貧との新しい社会悲惨の図絵に無関心でいられず、ひろがる犯罪、流行病から自分の家族を安全にあらせようと願えば勢い都市の衛生、都市の施設というものを議会の問題とせずにはいられなかった。文学の世界で、写実主義がおこってディッケンズがあらわれ、ロンドンの下層の生活の悲惨を描いたのがこの時代であった。サッカレイが「虚栄の市」「ペンデニス」「ニューコム一家」などで当時上流を占めた投資家貴族の生活を辛辣に描き出したのもこの時代であった。ロシヤではツルゲーネフが「猟人日記」からひきつづき、その時代の若いロシヤの青年男女の姿を「その前夜」「処女地」などに描いた時代である。よりよい社会への願望、研究、行動が空想的であった前世紀の理想社会への憧れから科学的な社会主義の方向に高まりつつ、世界の卓抜な才能と思想とを方向づけていた巨大な一時代であった。たとえ、淑女らしさという金縛りを身にうけてはいても、その時代の先進国であったイギリス生れの知識婦人であったフロレンス・ナイチンゲールが、社会衛生、道徳改善の事業にその規模の大きい現実的な精力の対象を見出したということは、決して不思議ではなかったのであった。
 ハーレー街の慈善病院監督となった翌年、三十四歳のフロレンス・ナイチンゲールが遂にその渾身の力を傾けて遂行すべき仕事が起った。一八五三年に英露のトルコ分割を目的とするクリミヤ戦争が起った。この戦役におけるイギリス負傷兵の状況の酸鼻が、しばしば議会の問題となり、世界の注目がそこにあつめられた。この時代まだ笞刑の行われていたイギリス陸軍の兵士が、クリミヤ戦争で傷つき、運ばれてゆくスクータリーの陸軍病院という名は、有識の人々の間に「地獄」の別名となった。
 シドニー・ハーバートという時の大臣の一人が、この時思い出したのはフロレンス・ナイチンゲールの存在であった。彼はフロレンスこそ、この場合に何事かをなし得る婦人であるとして、招きの手紙を送った。折から、ナイチンゲールの心にひらめいていた計画も、符節を合してまさにそのことであった。
 フロレンスが二人の親友と三十八人の看護婦をひきいて一週間のうちにロンドンを立って、トルコのスクータリーに到着したのは一八五四年の十一月であった。
 このクリミヤ戦争にはトルストイが一士官としてロシヤ軍に加わっており、セバストーポリについた第一歩に負傷者の哀れな有様に激しく心を動かされたのが、この同じ年の十二月であったことも思い出される。
 ロンドンを立つ時、当局の役人はナイチンゲールの問いに答えて、スクータリーには何一つ欠けたものはないと明言した。よしんば衛生材料が多少不足していても四日間でコンスタンチノープルから支給されるのだから、と。その言葉にもかかわらずフロレンスは女の勘で、いろいろな材料と金とをどっさりたずさえて、さて、到着したスクータリーの陸軍病院は、彼女の一行をどういう有様で迎えただろうか。巨大なバラック建ての廊下や大きい病室には、ありとあらゆる欠乏、怠慢、混乱、悲惨が充ち満ちていた。建物の真下を走っている大下水から汚物の悪臭がのぼって来る。その床はぼろぼろで洗えもしない。壁には塵埃が厚くこびりついて寝台は四マイルもぎっしりつめられていた。ところ嫌わず南京虫の大群が横行している。フロレンスがみたどこの貧民窟よりも不潔である。日常品の欠乏ははなはだしく、ビールの空壜にローソクがたっていた。たらい、タオル、シャボン、箒、盆、皿、ナイフ、フォーク、スプーンなどという必需品さえなかった。医療材料、薬品も揃っていない。働いている人々といえば無能な医者と官僚主義に頭も心も痲痺している役人と、疲労困憊して自身半病人である少数の人々ばかりであった。
 ナイチンゲールが女としての勘でもたらした品物と金とは、全く無限の役にたった。スクータリーの名状できない混乱をとおして、秩序と常識と先見と判断との光りが、日に夜にフロレンスが執務しているバラック病院の大廊下のそばの小さい部屋から放射されはじめた。変化は確実であった。病兵はタオルとシ
前へ 次へ
全6ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング