ャボン、ナイフとフォーク、櫛と歯ブラシとを、喜んで使い初めた。六ヵ月の間に病院の料理場と洗濯場とは改良され、本国からの積送品を整理するための政府の倉庫ができ、病兵の寝具類は煮沸器で消毒されるようになった。彼女が病兵にもスープ、葡萄酒、ジェリーなどが必要だといったとき、役人たちはお話にならぬ贅沢だ! と目をみはった。彼女の努力でも精力でも、どうしても実施されなかったことが、このスクータリーに一つ残った。病兵の喰べる「肉を骨から離す」事である。役所の規定は「食物は等分に分配すべし」とだけあって、配られたのが骨ばかりだったにしてもそれはその兵士の不運なのだし、ましてそれを噛む顎を弾丸にやられていたとすれば、それこそその兵の重なる不運と諦めるしかない状態なのであった。病院へのあらゆる必需品を調達するのは全部フロレンスの仕事であった。兵たちに靴下、シャツが着せられたのは彼女の個人的な出費とタイムズ社の寄附金があってからできたことであった。これらの緊迫した仕事はどんなものであったかは、当時彼女を看護の天使、優しい「灯をかかげた女人」として世人が感動を示したのに対して、フロレンス自身洩らした言葉にもうかがわれる。看護という特殊な仕事は確に彼女に「おしつけられた役目の中で一番軽い物であった」のだと。しかしながら、その軽いものも何と度はずれな大きさをもっていたことだろう。病院の苦痛のもっとも激しいところ、助けのもっとも必要なところには、いつも必ずナイチンゲールの平静な鼓舞のまなざしがあった。そのまなざしは危ない瀬戸際で兵士たちの勇気をとり直させ、医者の沈着を支え、そして、失われそうであった命をとりとめる役にたつのであった。その死亡率を半減された兵士たちの心からなる喜びの眼に彼女が天使に見えたのは自然だった。
けれども、この雄々しい活動の人を夜鶯《ナイチンゲール》め! と罵る人間もいた。その筆頭はスクータリー病院の院長ホール博士と連隊長連であった。女と戦争と何の関係があるのか。彼らはこの観念から抜けられなかった。軍医、看護卒、看護婦、病院関係の諸役人と大臣たちも、ナイチンゲールを天使とは考えられない人々の群であった。おそろしい無秩序と官僚風のしみとおったスクータリーへ、新しい敷布を一とおり行きわたらせるためにでもナイチンゲールは、厳格な方法、きっちりした規律、些事をゆるがせにしない厳密な注意、不断の努力、不屈の意志と断乎とした決心が入用であった。彼女の平静な表情の下に燃えさかっている情熱、澄んだ静かな声の中にこもっていて一旦その声に命じられたら服従せずにいられない一種独特な権威、それらは臆病の夜鶯《ナイチンゲール》の持ちものであるはずはない。おだやかな優しさや、いわゆる女らしい自己否定で、彼女はクリミヤでの業績をなしとげたのではなかった。この一行がはじめコンスタンチノープルに近づいた時、一人の看護婦が「上陸しましたらすぐ可哀相な人々の看護をはじめましょう」といったに対して、「一番丈夫な人たちは洗濯盥にかかって貰いましょう」と答えた彼女の実際の鋭い洞察も、記憶さるべきところではないだろうか。
戦争が終って四ヵ月後の一八五六年の夏、フロレンス・ナイチンゲールはクリミヤの天使として民衆の熱狂に迎えられながらイギリスに帰って来た。ヴィクトーリア女皇が贈ったブローチを白レースの襟の上に飾ったナイチンゲールの肖像は世界の隅々にまで流布した。
世間的な名声は、クリミヤでの英雄的な行為の記憶によって、世の人々の間に生きた。が、それから後の三十年間に、ナイチンゲールがほとんど長椅子の上に臥たきりで完成した事の意義こそは、更に重大であった。ナイチンゲールにとってクリミヤでの成果は彼女の経歴の有益な踏み石に過ぎず、それは世界を働かせる為の梃子《てこ》台であった。クリミヤでの激労ですっかり健康を害してイギリスに着いた彼女は、心臓衰弱に襲われ、たえず気絶の発作と全身の衰弱に悩まされた。医師は極力静養を求める。ナイチンゲールにとって、どうして今休養などをとっていられよう。今こそ好機が到来したのだ。鉄は熱い中にこそ打つべきだ。長椅子の上であえぎながら、彼女は報告を読み、手紙を口述し、心悸亢進の合間には熱病的な冗談をとばした。ナイチンゲールは、イギリスの陸軍病院の全組織の改善という大計画につかれているのであった。自分の体のままにならないフロレンスは間もなく自分の周囲に献身的な人々の小さい群をもった。もっとも重要なのは後に陸軍大臣となったシドニー・ハーバートとその夫人とであった。きわめて柔軟で同情に富む天質をもって生れ、従ってその時代の人間性を強調する息吹きにも感じ易かったシドニー・ハーバートは、フロレンスの指揮と指導の性質にひきよせられ、公共の目的のためには全く献身的な
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