は、彼女が生れた時代のイギリスの習慣の保守的な重み、第二は彼女が特に上流の淑女であるという重み、その二つの石は、やっとフロレンスが自分の人生に目的を見出して、看護婦になりたいといい出した時、先ず母夫人の驚愕、涙となってあらわれた。フロレンスは、二十五歳で、看護婦の仕事こそ自分の全力を傾注するに足る社会的な事業だと思いきめたのであった。

 十九世紀中葉のその時代のイギリスで、病人の看護をするのが聖業であるというような女は、他のまともな正業には従えない女、主としてもう往来を歩くには年をとりすぎたアルコール中毒の淫売婦あがりの婆さんたちであった。こういう看護婦というものがどんな不徳、冷血、不潔でおそろしいものであったかディッケンズの小説によく描き出されている。病院の看護婦といえば、風紀のみだれたもの、という代名詞のように思われていた。酒気を帯びないで勤務している者は一人もないという状態であった。他ならぬそういう看護婦の中に入って行こうというのであるから、フロレンスの周囲が驚倒したのもいわばもっとものことであったろう。
 フロレンスの申出は、断然反対された。フロレンスはこの第一歩の挫折を、決して自分の生涯の計画の挫折としてはうけとらなかった。それから後の八年という歳月は、フロレンスの上流令嬢としての生活の底におそるべき不屈な努力と実力の蓄積とをはらんで進行した。この表面の挫折に遭うまでのフロレンスは、何といっても自分の境遇の条件にしばられている一方であったが、この八年に、彼女は不撓《ふとう》な精神で、自分の境遇の条件を一貫した目的に従わせ、そのために活かしてつかって行くという生涯の態度を学んだのであった。
 この期間にフロレンスは医学調査会の報告や、衛生局のパンフレットや、病院、孤児院などの沿革をむさぼり読んだ。ロンドンの社交季節の閑をぬすんで貧民学校や救護所の見学をした。両親との贅沢な外国旅行の間に、暇を見つけては病院めぐりをし、貧民窟めぐりをし、ヨーロッパの大都会の病院と貧民窟とでフロレンスの知らないところはないという位になった。ドイツのカイゼルスウェールト温泉へ母と姉とで逗留したとき、フロレンスは二人の貴婦人たちが入湯や社交に日を消している間をぬけ出して、同地の看護婦養成所に三ヵ月以上も滞在した。「これこそ彼女の生涯を支配した重大事件であった」と、興味ある伝記作者のリットン・ストレーチーは、記録している。
 同じころ、更にもう一つの重大事件というべきものが、フロレンスの生活をその根から揺り動かした。やがて三十歳になろうとしている婦人の強烈な情感が一人の優秀な青年にひきつけられたのであった。フロレンスにとってこの情感のなみは全く新しいものであり、その激しい生れつきにふさわしく並々ならない動揺を来したらしく見える。当時のしきたりは、生粋の上流人であるフロレンスの感情の秩序にもしみこんでいるのであるから、彼女にとって恋愛の心は結婚の門に通じている一本道の上だけで自身に向って承認されるものである。当時の日記にはフロレンスの苦しい心持がまざまざとのこされている。「私には満足を求める知的な性質がある。その満足はあの人から得られる。私には満足を求める情熱的な性質がある。その満足もあの人から得られる。私には満足を要求する道徳的、行動的な性質がある。その満足はあの人の生活中には得られない。時には私もともかく情熱的な性質を満足させようと考えないでもないが……」しかし、フロレンスは自分の本心を知っている。そういう自分の心があるとき自分に涙をこぼさせるものであったとしても、やはり「私の現在の生活の延長と誇張とに釘づけにされ、自分にとって真実な豊かな生活をきずく好機会を永久に逸し去ること」はとてもできないとわかっている。フロレンスは、苦しくても本心の声に従わずにはいられない。彼女はその青年との結婚を断念することで、自分の愛の火の上にもふたをきせてしまった。これほどまでに人生的な大望に身をこがす一人の成熟しきった女性にとって、活動の機会を与えられず過ぎてゆく日々は如何に苦悩そのものであったかは、彼女の正直な次の告白が語っている。「人生三十一年、好ましいと思われるものは死ばかりである」と。
 この状態が更に三年もつづいたとき、フロレンスの周囲は、ごくありふれた考えからいくらかずつ彼女に自由を許しはじめた。この風変りな未婚の淑女も、そろそろ中年未婚婦人《スピンスター》と呼ばれる方に近くなって来てみれば、匙をなげた意味で、気まかせにさせるあきらめもついたというわけであろう。フロレンスはついにロンドンの医者街、ハーレー街にある私立の慈善病院の監督となることができたのである。
 それにしてもフロレンスは何故そのような執着をもって社会衛生に関係した仕事などに情熱を感
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