フロレンス・ナイチンゲールの生涯
宮本百合子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)不撓《ふとう》

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(例)[#地付き]〔一九四〇年四月。一九四六年六月補〕
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 慈悲の女神、天使として、フロレンス・ナイチンゲールは生きているうちから、なかば伝説につつまれた存在であった。後代になれば聖女めいた色彩は一層濃くされて、天上のものが人間界の呻吟のなかへあまくだった姿のように語られ描かれているが、フロレンス・ナイチンゲールの永い現実の生活は、はたしてそんな慈悲の香炉から立ちのぼる匂いのようなものであったろうか。人間のために何事かをなし得た人々は、今も昔もきわめて人間らしさの激しくきつい人々、その情熱も智力も意志もひとしおつよい人々ではなかったのだろうか。

 フロレンス・ナイチンゲールは一八二〇年イギリスの由緒ある上流の娘として誕生した。一八二〇年といえば日本では徳川時代の文政三年、一茶だの塙保己一だのという人が活躍した時代、イギリスは植民地インドからの富でますます豊かになりながら、一方にうめることのできない貧富の差を示して来たヴィクトーリア女皇の時代である。
 少女としてのフロレンスの明け暮れは、上流家庭の娘たちがみなそうであったように立派な家庭教師についてフランス語、ラテン語などの語学を勉強したり、音楽、舞踊、絵画、手芸などをはじめ、若い貴婦人として社交界に出たとき、狩猟の折にこまらないようにと乗馬などまで、規則正しく仕込まれていたに相違ない。小さいこの上流の令嬢が、あるとき一匹の犬が負傷しているのを見て大層可哀そうがって、折からそこにいあわせた牧師を大人のように命令して手伝わせながら、その傷の手当をし、副木をつけてやるまでは満足しなかったというエピソードが、生れながら慈悲の女神であったフロレンスの逸話のようにつたえられている。が、この插話がもし実際あったことなら、本当の面白さは後から粉飾された小天使めいた解釈とは別のところにあると思われる。小さい犬を可哀そうがる心は、子供にとって普通といえる自然の感情だけれども、その感情を徹底的に表現して、犬の脚に副木をつけるまでやらなければ承知できなかったフロレンスの実際的で、行動的な性質こそ、彼女の生涯を左右した一つの大特色であったと思う。そして又、その小さい少女の彼女が、牧師を終りまで手つだわせねばおかなかった独特の人を支配してゆく力、それもやはりこの婦人の生涯をつらぬいた特徴ある一つの天稟であった。
 ロンドンの住居は、当時社交界のよりぬきの人々が住んでいたメイフェアにあった。ダービーシアに別邸があり、次第に若い令嬢として成長して来たフロレンスの生活は、子供部屋から客間へ、舞踏の広間へと移って行った。どこか気性に独創的なところのある、富裕な教養たかいこの令嬢のまわりには、当然崇拝者の何人かが動いていたろうしまたどこの社会でも共通なように、彼女の両親の社会的な地位により多くの魅惑を感じている青年やその親たちが、月並のお世辞で彼女をとりまいてもいたであろう。だが、フロレンスの両親はやがてこの才色兼備のわが娘の素振りに、少しずつ疑問を抱きはじめた。
 世間では親も娘もそれを唯一の目的として心を砕いている婿選びに興味をもつ素振りもないし、社交界に出たばかりの娘たちを有頂天にさせる華美な遊楽や交際も、フロレンスはただ生れ合わせた境遇の義務の一つとして、それに従っているというだけのように見える。フロレンスの心がそこで満されていないということは、ふとしたおりおりにフロレンスの表情ににじむ何ともいえない倦怠のかげから十分察しられる。何不自由ない淑女であるフロレンスがもとめているものは、一体何なのだろう。
 彼女は自分のうちに、正に燃え立って焔となろうと願っている一つの激しくせつない欲望を感じているのであった。一人の女として、自分の全心をうちこんでやれるような意義のある何事かをしたいという情熱、自分の生涯をその火に賭して悔いない仕事、それをこのヴィクトーリア時代の淑女はさがし求めて、毎日のなまぬるいしきたりずくめの上流生活の空気の中であえいでいるのであった。
 何か全心のうちこめることがやりたい。この願望は、おそらく活溌な心をもって生れた千万人の若い女の胸に、今日もなお湧きつつある思いではないだろうか。だが、そのうち何人が、そういう仕事を自分の行手に見出すことに成功するだろう。よしんばそれらしいものを見出したとして、果してそのうちの幾人が、自分の最初の希望を、人生の終りまでつらぬきとおすことができるだろうか。
 若い婦人にとって何よりの敵である境遇の重荷は、フロレンスの若い頸筋にもずっしりとのしかかっているのであった。第一
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