早く!
 輪をあけた村の者たちに押しだされてペーチャが自分の家の入口の前に立ったら、そこの柱の根っこにアグーシャが後家マルーシャに身体を半分抱えられて腰かけている。
 マルーシャがペーチャを見上げて性急にいった。
 ――親父見なかったか?
 輪ん中から誰かいった。
 ――ペーチャ、しっかりしろ! 親父あお前とアグーシャおっぽって行っちまったぞ、帰って来るもんで、ガラスキーの伯父貴がおどしかけたんだ。
 道々ペーチャはそのことには感づいていた。まるで、ふるい[#「ふるい」に傍点]にかけられているように体じゅうガタガタ震えながら、真蒼なアグーシャが歯の間からつぶやいた。
 ――お前の親父あ行っちまったぞ。……でもそらあ、俺のつみじゃね。
 それから、
 ――俺、どうすりゃええかったのよ。お前の親父あ集団農場きらって、俺まで殴る。……けんど、俺どうしっぺえ、そげえに悪く集団農場については思えねえ……残っのあ俺のつみかよ。俺ガラスキーに身内はねえし、ここに俺の集団農場あるし……。
 ――心配するでね!
 ペーチャははっきり泣きもしないでふるえてばっかりいる哀れなアグーシャにいった。
 ――俺働こう、ここで! ここあ俺の集団農場だ。心配すんな! あ?
 ――見ろ! あに心配すっことあるか。
 マルーシャがアグーシャの胴を抱えてひったてながらいった。
 ――さ、内さ入ってちっと休め、な。
 アグーシャがやっと立って内へ入りかけると、たかっていた集団農場員たちはガヤガヤてんでの間でしゃべり出した。ペーチャは、
 ――見ろ! ソヴェトの息子と女房のすっことう! 俺異分子に用はね。結構だ! ガラスキーの麦で養え。
 そういうピムキンの声と、
 ――他人の不仕合わせ見てほたえるでねえ、ピムキン!
 ワーシカの声とを聞いた。
 アグーシャは、二日、ぼんやりして家の中で横んなっていた。それから集団農場の事務所へ出かけて行って、托児所の台所で働くようになった。
 真白に塗った羽目がある。窓枠には、桃色の花がいっぱい咲いた西洋葵の鉢がのっかってて、二つの室の綺麗な床に遊んでいる子供らは、年の順にわけられている。
 小さい手拭がズラリと低いところに下ってる。その上に、花、鳥、馬、家、目じるしの画がはってある。歯ブラシとコップがある。托児所開きの日、ビリンスキー村の大人と子供とは、たった二つのそういう室を、見物するのに二時間かかった。
 天気がいい日は素敵だ。托児所の外庭の菩提樹のかげに、いろんな形の籠や小寝台がならぶ。臍《へそ》まで出して嬉しそうにその上で足をバタバタやってるちびどもの間を、白い上被《うわっぱり》きて白い布《プラトーク》かぶったニーナとマルーシャが、ただ見るよりずっと悧巧そうな顔つきで、笑ったり、しゃべったりしながら動いている。
 ――へ、托児所じゃ、時間きって昼寝さすんだとよう。
 乾草をサスでかえしながら、ビリンスキー集団農場で女たちが話した。
 ――ふ、ふ、ふ。こっぱずかしいみてえにあそこあ、さっぱりしてる。
 ――まあ、は、悪いこっちゃねえわ。
 アグーシャはそのために自分が殴られた籐製の籠を、今は毎日托児所で見た。そこに寝かされるのは八本指のアリョーシャの末っ子だ。グレゴリーがいないことにアグーシャはしだいになれた。
 托児所の庭でアグーシャは馬鈴薯の皮むきをやっていた。子供を片手に抱きあげ、むつきを代えていたマルーシャが、むこうを見ながら、
 ――あら、見なアグーシャ! 今日、ピムキン、托児所見さ来るつもりだぞ。
といった。
 ――どれね?
 ――ホラ! 見ろ。ルバーシカ洗って干してんべ。
 白樺が六七本かたまって生えている。わきに小流れがあって鵞鳥が浮いていた。ピムキンが黄色い半裸で、そこの草に坐っている。白樺の枝に、何色といっていいかわからないピムキンのルバーシカが古旗みたいにひっかけてあった。
 ブローホフ村の医者が来る日だった。マルーシャは、しばらく遠くに見えるピムキンの裸の背中を眺めていたが、
 ――ぷう! 気違い!
 そのまんま歌をうたいだし、せっせと子供を洗いにかかった。
 暑い日になった。アグーシャははだしで裏のりんごの樹かげへ坐り、子供らの下着のつづくり仕事を膝へひろげた。
 医者が来るんで、籠の寝台は庭から建物の中へ入れられた。匂うような暑い夏の午後を蜜蜂がプウーン、プウーンうなってる。
 アグーシャは、そうぞうしい人声にハッとして眼をひらき、あたりを見まわした。裏庭には彼女ひとりだ。騒動は托児所の表だ。
 ――えーふー、あにおっぱじめた……。
 建物の横をまわって入口へ出ると、びっくりして突立ってるニーナがいる。白ズボンをはいたブローホフ村の医者が頬ぺた押えて、地面につばき吐いている。そしてピムキンが五六人の男にギッシリとりまかれている。
 ――何した?
 ――ピムキンが先生殴っただ!
 ――なぐった?――気べちがったか!
 ――早くイグナート・イグナートウィッチ呼ばってこい!
 ――畜生! 先生なぐるちゅう法あっか! 悪魔につかれてけつかる。見ろ! 村ぼいこくってくれっから※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 ピムキンは、黄色いみっともない顔をふるわせ、二つの眼だけ空にある太陽のかけらはめたようにギラギラさせている。
 足を引ずるような小走りでイグナート・イグナートウィッチが駆けて来た。――集団農場全体が駆けつけて来た。或るものはサスかついでる。或るものは鎌を手からはなさず来た。
 ――畜生! 何ちゅうことしでかした!
 ――俺、だからいったでねえかよ。ピムキンみてな奴、集団農場さ入れるでなえて!
 ――子供《レビャータ》たち! しずかにしろ!
 ニキータがどなった。
 ――ピムキン、お前先生なぐったって、ほんとか?
 イグナート・イグナートウィッチが、ピムキンの肩ひっ掴んで訊いた。
 ――殴ったとも! 見な!
 ――見ろ! 先生血いまじったつば吐えてる。
 ――ピムキン! 知ってるか。われわれん村じゃ医者の数あごく少ねんだ。ブローホフ村からやっと来て貰ってる、お前その医者殴って、あとどうしるんだ? もう来ちゃくれめえ。ビリンスキー集団農場と托児所からお前、医者奪った。元パルチザンのすっことか?
 ――イグナート・イグナートウィッチ! 嗅《けえ》でくれ! 嗅でくれ! 医者の口を嗅でくれ!
 ピムキンはギラギラした眼と手でイグナトをせき立てた。
 ――どして。
 ――嗅でくれ!
 麻ルバーシカを緑色の絹紐でしめた、丸まっちい体つきの医者は、イグナートに向って自分から、
 ――どうもはや、村の連中にゃかなわん。
 そういって手を振りながら、また地面につばをはいた。そのはずみに医者はひょろついた。イグナートは、じっとその様子を見つめた。
 ――さて……
 髯をしごき、今は密集している集団農場一同に向っていった。
 ――同志《タワーリシチ》、集団農場員《コルホーズニキ》! どうすべえ? 医者は酔って托児所さやって来た。
 ――聞いてくろ! 俺《おら》、どげえな思いしてこの托児所こせえた? 一年かかって、てんでが家から、枕あ、敷布だしあって、やっとこせえたんだ。
 ピムキンは、群集にかこまれ見っともない顔をまげて、考え、つづけた。
 ――俺やくざもんだ。誰も俺のこたあまともにいわね。……だが……俺、枕なしでええ。俺枕なしでおっちぬだ。ちっこいもんにさせるべえ。ちっこいもんはここでよく育って俺のトラクターとソヴェトの守手にならにゃなんねえ。こかあ、ビリンスキー村のどこよりきれえなとこなんだ。俺そう思う。誰がここさ酒くらって来たことがある! 誰が酒くらって托児所さ来たことがある※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
 無言の動揺が群集の間に流れた。誰かが低い真面目な声で呟いた。
 ――そりゃ全くだ。
 ――ぷう! 医者! 医者!
 ピムキンは、はぐき出してげんこをふりながら、皺の間へ涙こぼした。
 ――見ろ! 医者が托児所さ酒くらって来っことどこにあっぺえ※[#感嘆符疑問符、1−8−78]
 イグナート・イグナートウィッチが、わきへよって煙草まいてる医者に近づいてしずかにいった。
 ――今日はお前さに帰って貰うべ。
 カンカン日の照る道ばたに、医者ののって来た二輪馬車がおいてある。ビリンスキー村のもんは、ひろく道をあけて医者とイグナート・イグナートウィッチとを通した。二三人地面へつばした。
 みんな、何ということなししばらくそこにだまって立っていた。やがてそろそろ散りはじめた。
 ピムキンは托児所の入口の段に腰かけ、ニーナの足許で頭かかえている。ペーチャはうんと永い間黙って歩いて、集団農場の乾草小舎のよこまで来たときニキータにくっついて小さい声でいった。
 ――ニキータ……いつか夜、ピムキン、トラクターへわるさしに来ていたんでは無えかったんだなあ。
 ――うん。
 青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》ニキータは、考えこんだ顔で、立ったまんま人蔘色の前髪をひっぱってたが、やがて、
 ――よし、と!
 元気になってペーチャにいった。
 ――さあ来い! もう一っ働き、やっぺ!
 カン!
 カンコ!
 カン!
 カンコ!
 夏空は、燃えたって揺れもしない青い焔だ。花盛りのひまわりの根っこへ木《こ》っぱをとばしながらペーチャとニキータが、材木へチョウナをぶっこんだ。
 ペーチャは裸だ。裸の首へピオニェールの赤襟飾をちょいと結んでいる――



底本:「宮本百合子全集 第四巻」新日本出版社
   1979(昭和54)年9月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
底本の親本:「宮本百合子全集 第四巻」河出書房
   1951(昭和26)年12月発行
初出:「週刊朝日」
   1931(昭和6)年4月1日春季特別号
入力:柴田卓治
校正:松永正敏
2002年5月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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