る。その机の前まで列はつづき、椅子にかけている一人がすんで帽子をもったまま立ち上ると一二歩ずつ外の連中ものろのろ動く。
 もちろんこんな場合、何の役目をもっているはずないピムキン一人である。列のまわりを歩いたり、書記の机の横へ行って腰へ手をまわし、しかつめらしく書きぶりを見下したりしているのは。
 末っ子を外套の中へ入れて抱いた後家のマルーシャが列の中から、陽気な声でピムキンにいった。
 ――へい、爺さん! 何おっことしたかね? うろうろしないでいい加減列に立ちなね。
 ぼろぼろの山羊皮外套の前をはだけピムキンは横柄にぶっつける。
 ――お前の知ったことじゃねえ。集団農場は小物売店《アカフ》の塩漬胡瓜じゃねえだ。俺のためにゃ順番ぬきでいつでも場所を明けてあるんだ――判ったか。それが国家ちゅうもんだ!
 ――国家?……ふう! 気違い!
 油虫はどこの台所にだっているもんだ。気難かしいグレゴリーは、自分の番がきて椅子に坐ろうとしたとき、かさばったかっこうでわきに立ってるピムキンを虫けらみたいに手で押しのけた。
 ――邪魔すんな。
 ――ほほう! 魂の暗え土百姓《ムジーク》というとおりだ、お前は――
 ――お前こそなんだ?
 青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》ニキータが、机のむこう側に立ち上った。
 ――同志《タワーリシチ》グレゴリー。時間を無駄にしてくれるな!
 日が沈むと、早い春の気温はぐっと下り、雪解水の音がやんで、暗くなると一緒に泥濘が凍った。やっと登記の列が終った。書記がランプの下で紫インクのペンを置き、一服すいつけたところへ、ピムキンが、家へかえって来たような足どりで机の前へやって来た。
 集団農場ソヴェト議長イグナート・イグナートウィッチが書類をしまいかけている。
 ――何用だね? 俺の爺さん。
 ――さあ、こんだ俺の名だ。元のパルチザン、集団農場さ入れねえことは、なかっぺ。
 黒い皮の半外套に同じ帽子をかぶった集団農場中央からの男が、小声で、
 ――何者だね?
とイグナート・イグナートウィッチに訊いた。イグナート・イグナートウィッチは長い髯をしごきながら、
 ――知ってなさる通り……まだ村にゃあいろんな者がいる……国内戦は人間の体のいろんな場所に影響した。
 ――そりゃ本当だ。
 ピムキンは、窮屈そうに肱をあげてルバーシカの裏ポケットから例の紙切れを引き出しながらわきから口を入れた。
 ――俺の五枚目の肋骨にゃまだコルチャックの鉄砲玉が入っている。――そりゃだが、何でもねえ。玉あレーニンの骨さも入った。……これが俺の書類だ。
 中央からの男は指の先で、折目がすり切れタイプライターの紫インクがぼやけた書付をひろげて眺めた。書付はみんなで十枚あった。あるものは鉛筆の乱暴な走り書だ。あるものには、戦時共産主義時代の村委員《コミサール》の名が赤インクで書かれている。
 それらは証明している。ピムキンは或るとき小学校の小使だった。或るとき赤衛軍の食糧運搬夫だった。そして、或る時、ピムキンは赤のパルチザンでアルタイ附近で戦ったこともあったんだ。
 ――ふーむ。
 陰気な眼付になって中央からの男が、書付を元のように重ね、だまってピムキンの方へ押した。
 ――ちょっと……僕にも見せて貰えないか?
 疑わしげな顔つきでピムキンは鳥打帽をかぶって外套の襟をたてた若い男を見た。
 ――お前さん、どっからだね?
 若い男はもちろんだという声で答えた。
 ――町からだ。
 しつこい、同じ調子でピムキンがまたきいた。
 ――何する人だね?
 ――……書くんだ。わかるか? 記者だ。
 ピムキンは、じろじろ正面から若い者の帽子や眼鏡を見なおして、
 ――それがどうだってえのかね。
といった。
 ――若えもんが、俺らんところで、ちっとでも悧巧んなってかえろうてのは、わるい心掛じゃあねえ。
 ピムキンは、意地わるくそのまま書付をゆっくりまたルバーシカの裏ポケットへしまい、イグナート・イグナートウィッチにだけ挨拶して出てってしまった。

        三

  ┌────────────┐
  │集団農場・万歳※[#感嘆符二つ、1−8−75]    │
  │新しい農村生活・万歳※[#感嘆符二つ、1−8−75] │
  └────────────┘
 プラカートは赤く、朝日に向って、すきとおるように揺れうごく。まだ耕されてない耕地の間の村道だ。
 プラカートとともに行進していたビリンスキー村ピオニェールは、村境のところで立ち止った。十五人の子供が、かたまって熱心に地平線を眺めた。
 ――……見ねえ。
 ――……来ねえな。
 お下げ髪をたらして、しっぽを赤い布で結わえたナターシャがまるで心配そうな細い声でいった。
 ――こわれたんでねえだろか……おら……おっかね。
 それから子供らは、プラカートを握り、眼に力いれて地平線を見つめはじめた。白い雲があるだけである。
 朝日は彼らの影をジッと足もとにおとしてる。
 ――来たっ!
 ころがるように道ばたの高みを駈けおりながらペーチャが叫んだ。
 ――来たぞっ!
 ウラー! アアアアア!
 見ろ!
 見ろ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 春の白い軟かいかたまり雲が光ってるところに黒いでかいトラクターが現われた。隣村から送って来た者が多勢まわりにくっついて、トラクターがやって来た!
 一台!
 二台※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 ピオニェールはマラソンだ。赤いプラカートはもみにもめる。
 地響を立て、鋼鉄の胴体を震動させつつトラクターは真直ぐピオニェールの方へ、ビリンスキー村の方へやって来る。まわりは、果ない耕地、耕地だ。
 ――村へ入って、村ソヴェトの前まで来たとき、二台のトラクターの周囲は隣村のもの、うちの村のもの、人だらけで、高いところに一人技師がハンドル握っているのだけが見えた。
 集団農場については積極的によろこんでいない者でも、家に坐っている我慢は出来なかった。技師が真面目な顔つきで高いところから下りて、イグナート・イグナートウィッチと丁寧に、心をこめて握手したとき、若いものは思わずウラーと叫んだ。婆さんたちは、せかせか胸の前で十字をきって涙を浮かべた。
 樅の葉っぱで飾った村ソヴェトの前でイグナート・イグナートウィッチは二人の技師その他と立って演説した。
 ――さて――機械が来た。機械と一緒にわれわれソヴェト農民の新しい事業がはじまるんだ。機械は、わかってるだべ、お前のもんでも、俺がもんでもねえ。われわれ集団農場全員《コルホーズニキ》のもんだ。――つまり……ソヴェト農民全体のもんなんだ!
 ピムキンは、気違い犬みたいに今日は特別落付きない。イグナート・イグナートウィッチの足許へひっついて群集に向って立っている。彼は、イグナートの演説のきれめきれめに頭をふりながらいった。
 ――百姓《ムジーク》も会得する時機だ。ハア。
 青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》ニキータも、髪の毛の生え際まで赧くなって野天で、トラクターのわきで演説した。
 ――子供《レビャータ》たち! わかるだろ。機械は新しい生産の武器だ。われわれプロレタリアートの階級の武器だ! 武器をお前ら敵にわたすか? 渡さねえ。同じことだ。機械を富農《クラーク》やその手先に渡しちゃならねえ。わかったか※[#感嘆符二つ、1−8−75]
 わかった! わかっている! いくつもの声がニキータの演説に答えた。
 夜になると、トラクターの置いてある村ソヴェトの下の広っぱに焚火がたかれた。ビリンスキー村のどの家の中でも、今夜は、この広っぱに時々気をとられる。
 ペーチャは粥《カーシャ》を食ってしまうと、ムッツリしている親父をおいてぶらりと外へ出た。広っぱの低い焚火のまわりに、五六人集まっていた。ニキータ。ニーナ。ワーシカがいる。ワーシカもニキータと同じ青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》で村の牧童だ。しかめ面して鞭の柄で焚火を突ついている。だが何故みんな変に黙りこんで――つまり変にしてるんだろう? ペーチャは焚火のあっち側をすかして見た。我知らず、ニキータの顔を見上げた。ニキータは知らんふりしている。ピムキンがいるじゃないか!
 明るい火のそばへボロ長靴をはいた足を出し、どっからか乾草をひっぱって来て、その上へころがっている。腸詰、黒パン、ブリキのひどい薬罐《やかん》などがピムキンの足許にあった。
 ここに、ピムキンは何の用がある?
 ペーチャは、さては、と思った。おっかない、勇ましい気がし、急に焚火のそとの暗がりが濃く深く空の星が遠く感じられた。
 ニキータ、ワーシカ、ニーナなんかがトラクターとピムキンとを見張ってるのだということが、ペーチャにわかった。ピムキンは人並な奴じゃない。村のものを何ぞというと土百姓《ムジーク》といいやがる。ピムキンはいつでも意地わるだ。――トラクターをこわして集団農場を妨害する奴の話はペーチャだって一度や二度でなく聞いているのだ。
 焚火の、ぼんやりした赤黄ろい光りの中に、幅広い波形歯のついたトラクターの大きい車輪の一部が浮いて見える。ピムキンのボロ長靴の先が見える。
 よっぽどたった。
 ふいとピムキンが立ち上って、暗がりに消えた。ニキータが、いそいで、反対の側からトラクターの方へ行った。
 間もなくピムキンが焚火のそばへ戻って来た。ニキータが口笛をふきながら、かえって来た。
 ピムキンはもう寝ず、ブリキ薬罐を焚火のそばへ押し出し、片手の腸詰をかじっては黒パンをくいはじめた。
 ペーチャや若いものは、黙ってそれを焚火のこちら側から見ている。ピムキンは言葉をかけようともしない。ワーシカがピューッと音をさせて鞭を振り、
 ――え、おい! ちっと陽気にやろうで!
といった。
 ワーシカとニーナが一抱えの乾草と手風琴《ガルモーシュカ》をとって来た。
 ニキータがあぐらをかいて、手風琴を鳴らした。ワーシカは口笛で合の手を入れ、ニーナが前歯の間でひまわりの種をわりながら、
  お婆さん、石鹸おつかいな。
  馬鹿こくな! お母の腹で石鹸つこうたかよう
  お爺さん、歯ブラシおつかいよ。
  うるさい孫め! その歯があるなら
  ク、苦労すやしめえ!
と唄うと、みんな笑った。
 ――ペーチャ、さ。
 てのひらんなかへニーナがひまわりの種をあけてくれた。
 焚火の焔は揺れ、そのたんびにニーナの派手な橙色のスカートが明るく近づいたり、また遠のいたりして見えた。ピムキンは焚火のあっちで、今腹這いになっている。

        四

 集団農場ソヴェト大会で、ピムキンが、
 ――同志《タワーリシチ》、議長! それは九十二パーセントではねえ、九十二パーセント二分だ。
と、第一列から教えるように播種面積報告の訂正をやった。怒ったように誰かが、
 ――静かにしろ!
と聴衆の中から叫んだ。が、赤い布をかけた細長いテーブルの前に立っていたイグナート・イグナートウィッチは、首のガクつく鈴をチチリ、チチリ、チチリ、と鳴らし、
 ――同志《タワーリシチ》、集団農場員《コルホーズニキ》! そうだ。正しい。われわれのところで、この春の播種面積は予定地積の九十二パーセント二分あった。
 ほほえみながらつけ加えた。
 ――どうか来年は、俺がもっと大きい数字を忘れるような成績でやっつけたいもんでねえか!
 みんな悦んで、笑いながら拍手した。
 ビリンスキー村の集団農場は、二度目の蒔つけを無事に終ったところであった。ペーチャがニキータとトラクターの番をして、乾草の上で夜明しをしたのは、もうまる一年前である。
 この夜の大会は、去年の秋から提出されていた集団農場托児所設立問題をいよいよ実行案として討議した。
 数時間、めいめい遠慮なくしゃべった。それから、委員が起立して読みあげた。
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一、托児所は、村から追放された富農ブガーノフの小舎におくこと。
一、集団農場と村ソヴェト衛生委員会との協力によって毎月二十ルーブリ
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