れ! ほれ! これが、お前らの新文化だ!
 ――黙りな。
 イリンカが、鋭い風のようにピムキンの顔へ向っていった。
 ――私は失敗した。けど、この手でやって見たんだよ。やって見たんだ。お前さんは何をやって見たね?
 青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》ニキータは、ほくろのある円くて暖かいイリンカのむき出した腕をとって、つよく横へひっぱった。ピムキンが、ルバーシカの裏ポケットから紙を出しかけたら、一時間はのがれられないのをニキータは知っている。
 赤旗が十字架のかわりに教会の屋根にたてられた。その秋ビリンスキー村の革命記念祭デモンストレーションは、このクラブの前からはじまった。「文盲打破《リクベス》」の夜学と農村青年教育の夜学がそこで開かれるようになった。
 ペーチャは「文盲打破《リクベス》」でニキータの助手だ。

        二

 ビリンスキー村のはずれに川がある。夏になると、草の茂った土手のこっち側では村の女たちが、ちょっと上流のあっち側では村の男たちが、水浴をやる。
 白夜でロシアの月は白く、草は青い。裸の人間の体は美しく見えた。
 土手へ出るまでの草のなかを、犬がふみつけたような小道が斜に左へきれている。その奥に丸太小舎が一軒ある。例えばメー・デーの日、その丸木と丸木の間につめてある苔や泥もくずれたような丸木小舎を見ろ。入口の戸のわれ目に細長いうすよごれた赤い布がブラ下っている。赤旗のつもりだ。
 ピムキンを見つけようと思ったら、然しこういう彼の小舎へやって来たってだめだ。彼はいつも村の中、村ソヴェトのまわりをうろついている。或は村のどっかを歩いている何かの委員のまわりにくっついている。――
 その日は、途方もないいい天気だった。
 村ソヴェトの軒からポタポタ、ポタポタ雪解水が絶え間なく落ちてきたない泥をはねとばしている。日向の雪全体が春の暖気でうき上った。雪の底から流れる水は晴れ渡った空をうつしながら、足もとを走る。毛外套《シューバ》では汗が出るうららかさだ。
 ビリンスキー村の男女は、冬じゅうにのびた鬣《たてがみ》をうるさがる馬のような眼付で、まっさおな空を眺めたり、雨だれの音を聞いたりしながら、村ソヴェトの前へ列になっていた。集団農場加入登記日なのである。
 みんなあまり口をきかない。新しく来た集団農場書記が、入って左側の室でしきりに書式を埋めている。その机の前まで列はつづき、椅子にかけている一人がすんで帽子をもったまま立ち上ると一二歩ずつ外の連中ものろのろ動く。
 もちろんこんな場合、何の役目をもっているはずないピムキン一人である。列のまわりを歩いたり、書記の机の横へ行って腰へ手をまわし、しかつめらしく書きぶりを見下したりしているのは。
 末っ子を外套の中へ入れて抱いた後家のマルーシャが列の中から、陽気な声でピムキンにいった。
 ――へい、爺さん! 何おっことしたかね? うろうろしないでいい加減列に立ちなね。
 ぼろぼろの山羊皮外套の前をはだけピムキンは横柄にぶっつける。
 ――お前の知ったことじゃねえ。集団農場は小物売店《アカフ》の塩漬胡瓜じゃねえだ。俺のためにゃ順番ぬきでいつでも場所を明けてあるんだ――判ったか。それが国家ちゅうもんだ!
 ――国家?……ふう! 気違い!
 油虫はどこの台所にだっているもんだ。気難かしいグレゴリーは、自分の番がきて椅子に坐ろうとしたとき、かさばったかっこうでわきに立ってるピムキンを虫けらみたいに手で押しのけた。
 ――邪魔すんな。
 ――ほほう! 魂の暗え土百姓《ムジーク》というとおりだ、お前は――
 ――お前こそなんだ?
 青年共産主義同盟員《コムソモーレツ》ニキータが、机のむこう側に立ち上った。
 ――同志《タワーリシチ》グレゴリー。時間を無駄にしてくれるな!
 日が沈むと、早い春の気温はぐっと下り、雪解水の音がやんで、暗くなると一緒に泥濘が凍った。やっと登記の列が終った。書記がランプの下で紫インクのペンを置き、一服すいつけたところへ、ピムキンが、家へかえって来たような足どりで机の前へやって来た。
 集団農場ソヴェト議長イグナート・イグナートウィッチが書類をしまいかけている。
 ――何用だね? 俺の爺さん。
 ――さあ、こんだ俺の名だ。元のパルチザン、集団農場さ入れねえことは、なかっぺ。
 黒い皮の半外套に同じ帽子をかぶった集団農場中央からの男が、小声で、
 ――何者だね?
とイグナート・イグナートウィッチに訊いた。イグナート・イグナートウィッチは長い髯をしごきながら、
 ――知ってなさる通り……まだ村にゃあいろんな者がいる……国内戦は人間の体のいろんな場所に影響した。
 ――そりゃ本当だ。
 ピムキンは、窮屈そうに肱をあげてルバーシカの裏ポケットから例の紙切れを引き
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