一様性に対立物としてそれらの作品が読者の感情を掴んだ。けれども「盲目」について見ても実際の生活の場面での問題、島木氏が悲壮な闘士のポーズとして描き出している心理の観照的態度、嗜虐性等は真の意味での健全な闘志の表現としては、少からずいかがわしいものであった。個人的な話の間に何時であったか私は「盲目」の終りの部分に就いて島木氏に、あれはどうも変だ、どうしてあの主人公は釈放を求めずにいるんでしょう、あれでいいんでしょうかという意味を言ったらば、島木氏は例の謹厳な面もちのまま、ああ、あすこのところはこしらえてあるという意味を答えた。そうだとすれば、そこに一層作者の主観の傾向が十分に窺える訳なのである。
 以上のことにつれて更に注意を引くことは一方に文学作品に於ける人間性の抽象的な主張が現れた前後から、プロレタリア文学に新しい素質の作家たちが登場しはじめたことである。加賀耿二氏は今から七・八年前「綿」という一作を持って文学の分野に現れた作家であるが、それ以前には組合の仕事、つまり当時の政治的な組織の活動をやっておられたように仄聞《そくぶん》している。獄中生活で健康を害し執行停止され、現在は作家の
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