の在りように照して見れば複雑な内容で力以上のものを、方針から要求されているという感情をひそめていた人々もあると言え、組織が弱くなるにつれそれらの無理が個人の色どりに従ってさまざまのアナーキスティックな批判や反撥として現れた。古い職人的な意味での芸術至上主義や、社会主義的リアリズムの理解を主観的な欲求に引き添えて曲解したりすることが生じたのであった。不幸にして日本では、以来これらの混乱し錯雑した文学上の理解の齟齬を、全面的に生活的に正して行く条件がプロレタリア文学運動として欠けたままでいるのである。従って一般の読者は文学作品と言えば、ブルジョア作家のものも、プロレタリア作家と云われる人々のものも等し並みに、自分の主観的な嗜好に従ってただ読み過す状態に置かれている。
 島木健作氏の「癩」「盲目」その他の作品が広く読まれた事情には、これまで述べて来た幾つかの客観的なまた主観的な条件の然らしめたものがあった。「癩」「盲目」等では、やはり人間の肉体的なるものが主となって特殊な事情の綾の中で描かれているものであった。それらの作品が発表された前後の社会的な事情、従来のプロレタリア文学が持っていた或る
前へ 次へ
全26ページ中9ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング