芸術らしい解剖にまでは肉迫することのない縷々綿々的な叙述で描かれることであるかのように思われたことがあった。読者としてそれを求めた感情があった。今日でも尚そのことが一般に嗤《わら》うべきこと、作家にとっても読者にとっても害悪しかないことと理解され切っていないところがあり、例えば三月号の『文芸』には村山知義氏が「父たち母たち」という小説を書いている。かつて「白夜」を書いたこの作者は「思想関係の事件で起訴されたり投獄されたりの間の、自分の意志でどうともならなかった心の動きの秘密を知りたいという慾求」から「自分の血統に傾ける心」を持って「自分の一族」の経歴を溯っている。作者は、自身の蹉跌や敗北の責任を「自分の意志を作り上げこそしたと思われる古い昔の父たち母たちに押しつけなすりつけようという」思いを自身軽蔑しつつそれに引かされている自分をこの作品の中で認めている。
「父たち母たち」は作品としては皮相的に描かれていて、作者が自分の血の中に流れている望ましからざる血の源泉として描こうとしている祖父、父の姿は読者をその血のつながりの必然さに於ても納得せしめない程度のものである。けれども、この小さい一
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