ヒューマニズムへの道
――文芸時評――
宮本百合子
−−
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)所謂《いわゆる》
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)抽象的な良心[#「良心」に傍点]だけで、
−−
加賀耿二氏の「希望館」という小説が三月号の『中央公論』に載っている。
僧侶によって経営される思想犯保護施設である希望館の内部生活の描写とその屈辱と汚穢に堪えきれなかった仙三という主人公が、大阪太陽新聞主催の見世物めいた座談会の席上で、希望館同宿人の中で最も卑屈狡猾な江沼という男を殺傷する場面で終っている。
この作者は、題材的には、常に実際の生活の中に起った出来事を取り上げてゆく或る意味での積極性を持っている人である。先頃もオリンピック熱に煽られた工場内のスポーツが女工を悲惨な死に陥れた話が書かれていた。
プロレタリア文学運動が、運動として退潮して後、民衆の生活を直接取り上げてゆく作家として加賀氏はプロレタリア文学の正当な要素の受け継ぎ手の一人であるかのように一部の読者に思われている。しかし、一人の作者がその題材でだけ刻下の現実の一面に触れているというばかりで、果して現実をプロレタリア作家としての立場で描き得ていると言い得るものであろうか。プロレタリア文学が運動としての形を失っているからと言って、プロレタリア文学の作品の実質が、最少抵抗線に沿った目安で評価されてよいものであろうか。「希望館」という一篇の小説は私にさまざまの疑問を与えた。
作者は「希望館」という一つの保護施設を内部から描くことで、今や全国に網をひろげている所謂《いわゆる》保護施設なるものの正体を典型的に読者の前に示そうとしたのであろう。また仙三、江沼、山村等の人物を描くことで、一般に転向者と言われている人々の各タイプを描こうとしたのであったろう。これ等を目的としたのであったらば作者は十分成功を納めているとは言い難い。作者は、極めて客観的に描き出すことで読者の心を打つべき残酷な劇的な座談会の場面をも、表面的に神経的に描いている。更にそれぞれの人物の描き方、人間の観方に深い異議を喚び起された。杉山平助氏が新聞の月評でこの作品に触れ、余談ではあるがと傍註をして、もし一度時期が彼等に幸いしたのであったならば、このような人物でさえも一通りの役目に就いて、人々を支配する立場に置かれるのであろうかと、否定的な感想を洩らしておられる。「希望館」を読んだ人々の中で杉山氏と同じような感想を抱いた人が他に一人もなかったろうとは言えないと思う。そして、それを読者の側だけの責任という風には決して言えない作者の責任がある。この二三年来、プロレタリア文学と称する領域の中に目立った一つの傾向がある。それは左翼の活動をかつてした人間、今日は情勢に押されてその活動の自由を失っている人間の人間性というものを切り離して、運動の性質、その場面でのぞましいものと考えられている人間の統一体とは寧ろ対立的な関係にあるものとして、二元的に眺め、最後の軍配を弱く悲しく矛盾に富んだ人間性という方へ挙げる顕著な傾向である。
この異常な傾向或は嗜好は左翼文学の退潮と共に起ったものであった。原因には単純でないものがある。一時、情勢の昂揚につれて個人として見れば種々な点に鍛錬の足りない人々が運動に吸収された。後の困難な諸事情は、そういう人々の、いずれかと言えば受動的な勇気を挫き、昂奮の後の感傷や過度な内省を誘い出した。由来一つの大衆的な運動というものが、真の精鋭のみの小団結ではなく、そのものの周囲に幅広く種々雑多の人間を引きつれて、塵埃《ごみ》も残滓《かす》もそれぞれの時代の歴史性に従って残しつつ更に大きなプラスを持って積極的な進歩のための役割を果すものである。一人一人の人間として見れば誰しも長所と欠点とがある。そういう人間が集った一つの運動的な部隊としての価値が、ただ雑多な人間の寄せ集めの総和としてだけの価値を持つのでなく、別個のより高い価値を作り出すところにその運動の本質が備えている歴史的な新たな価値があった。従って、そういう運動に参加していた時に一人一人の人間的なプラス、マイナスは運動の方向、実践の中に綯《な》い交ぜられていたのであり、ある場合には全体の方針の健全さの中に個人のマイナスなものが消されていた。そればかりでなく、そのような日常生活からの鍛錬はその人の中から或る期間の後にはマイナスなものを発展的に失くしてしまう力を持っていた。実践の価値というものが厳しく言われた意味は、この人間的完成の面に於ても明かであった。
日本の特殊な社会的事情は、世界にあまり類のない大衆の政治的成熟の困難さを来している。左翼の運動は、その昂揚の形も退潮の形も日本独特なものがある。今
次へ
全7ページ中1ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング