委しくここに触れることは私の力にも及ばないことであるが、運動全体が非常に急速に高まり、非常に急速に退いたことは、上述の集団生活が人間性をより強固なものに陶冶する為に必要な条件と時間とを与えなかったように見える。強い中心的な磁力が失われたらば、それに吸いつけられていた夥しい人々が自身の生存からも中心力を失い、生活的に低い所へ落ちざるを得なかった。この場合、運動の歴史の若いことは各個人に複雑に作用して、中心力を失った人々はそれを持たなかった以前よりも一個の人間としてましに成っているものとして残されず、却って卑俗なもの、旧套なものの中に自分の重みで深く落ちこんだようなところさえ見られる。これらのことが心理的な陰の力となって、現今プロレタリア文学作品と称されるものの中に、階級の方向と人間性とを切り離して、しかも主観的に、対立的にじめじめと描く一つの傾向を導き出しているのである。さほど遠い過去でないある時期には、プロレタリア作家が人間らしく、正直になるということは取りも直さず、社会の全体性と切り離され、対立的に見られる一俗人としての弱さ、自己撞着などを、何故それが彼の中にあるかという真剣な、真に芸術らしい解剖にまでは肉迫することのない縷々綿々的な叙述で描かれることであるかのように思われたことがあった。読者としてそれを求めた感情があった。今日でも尚そのことが一般に嗤《わら》うべきこと、作家にとっても読者にとっても害悪しかないことと理解され切っていないところがあり、例えば三月号の『文芸』には村山知義氏が「父たち母たち」という小説を書いている。かつて「白夜」を書いたこの作者は「思想関係の事件で起訴されたり投獄されたりの間の、自分の意志でどうともならなかった心の動きの秘密を知りたいという慾求」から「自分の血統に傾ける心」を持って「自分の一族」の経歴を溯っている。作者は、自身の蹉跌や敗北の責任を「自分の意志を作り上げこそしたと思われる古い昔の父たち母たちに押しつけなすりつけようという」思いを自身軽蔑しつつそれに引かされている自分をこの作品の中で認めている。
「父たち母たち」は作品としては皮相的に描かれていて、作者が自分の血の中に流れている望ましからざる血の源泉として描こうとしている祖父、父の姿は読者をその血のつながりの必然さに於ても納得せしめない程度のものである。けれども、この小さい一篇は、この作者が数篇の小説に於て所謂買われて来た面を破綻的に現していることで注目に価する。「希望館」とこの「父たち母たち」とでは作柄が違って見えるが、根本的な傾向として抽象的に人間性を取り上げている点では同じ性質の二作なのである。
プロレタリア文学が辿って来た発展の歴史を省ると、この人間性の抽象的な尊重という傾向は、ソヴェトの文学運動の過程にもかつてあったことである。一九二九年から三一年頃までの間に、ソヴェトの文学では過去の単純に英雄化された人間の描写を発展させるべき方向として、人間を描けということが言われた。善玉悪玉でない生きた人間を描けということであったが、ソヴェトに於てもこのことは一部の作家に曲解された。リベディンスキーがこの課題に答えようとして書いた「英雄の誕生」は、この提言がどんな風に或る作家の個性的なものによって誤解されるかということが示された作品であった。リベディンスキーは、「英雄の誕生」の中で経験を積んだ政治家の日常活動と対立した性慾の問題を切り離して扱い、その誤った人間性の理解について多くの批判を受けた。
ソヴェトではその後、社会主義の建設が進むにつれて、大衆の経済的、文化的実力にふさわしい社会主義的リアリズムが芸術の創作方法として取り入れられている。このことに就いても見落せない文学上の一つの理解の相違が、日本の文学の中に今日尚曖昧のままに残されている。インテリゲンツィアや小市民的な技術家が勤労者として精神的にも再教育されて来たソヴェトの社会的現実の上に立って、芸術の創作方法としての社会主義的リアリズムが称えられて来ているのであるが、日本では異った事情の上にその提唱が受け入れられた。そして、文学の面では或る意味で従来はそのものとしては否定されて来た小市民的な要素、言い古された形でのインテリゲンツィア性を文学作品の内容、表現に復帰させ得るきっかけのように、一部の紹介者によって説明された。これには内部的なまた外部的な諸事情がからみ合っているのであるが、主なものはプロレタリア文学運動の指導方針の中にあった政治と文学との関係を見る点が文化主義的なものの影響と、当時のプロレタリア作家に未だ不足していた実力、権力の側からの強圧に対する受動的な態度等が相互的に関係し合っていたと思う。当時一概にプロレタリア作家という名に呼ばれてはいても謂わば一人一人の主観の真
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