かし小説に於ける美というものは、戯曲や演出などに際してはその芸術家がより高いものへ向って統一している種々雑多の弱点、ごみくたそのもののイージイな展覧にだけ在るのではない。ロマンティック時代の小説のように、これもまた一種の善玉悪玉である奸智に長けた心、ヒステリックな神経的行動の誇張の中にないことも明らかである。
以前プロレタリア作家の特等席ということが言われたことがあった。この言葉は左翼運動の他の場面に働く人々の困難、刻苦に比べて作家は同じ世界観の下にあるとはいえ、その日常の暮しは小市民的な安らかさと物質の世俗的な豊かさの可能に置かれ、小説を書いておればいいのだからという、差別的な理解の上に言われた言葉であった。日本の左翼の運動が当時若く未熟で、文化政策の面で正常な理解と指導とを持ち得なかった一種の文化主義が、この特等席の観念に現されている。このことが稍々《やや》正常に理解されかかった時期に遺憾にも組織が崩されたので、今日でも、かつて左翼的な活動をした人々の通念と日常感情の中には、古い文化主義の根が除去され切れず、残されたままにある。今日の社会の情勢の中で、多くは個人的な事情から文学の仕事をしてゆくにあたって、これらの人々は自分の作家としての活動に、過去の癖から妙な過小評価を持って対している。はっきりした言葉にならぬまでも、文学の仕事を他の政治的な仕事と比べて機械的に下位に置かれた仕事の感じを抱いていないとは決して言えないと思う。今日に於て、自分の最上の努力、最上の献身をもって従事すべき仕事としての自覚、誠実が不足している。さもなければ、文学的には努力のこめられていない安易な作品を、ただ題材が勤労大衆の生活面に触れているというだけの現象性で、とりまとめてどうして安んじていることが出来よう。
加賀耿二氏の「希望館」の主人公仙三は、所謂良心的であるが故に神経質であり、神経質であるから良心的であるかのように描かれている。この神経質で受動的に敏感な男が最後の破局として突発的殺傷をすることは前に述べたが、私としてはこの作者が所謂良心的という人間を描く時に、多くこういうタイプの弱い人間をその面でだけ取り上げて来ていることに或る注目を引かれる。この作者にとって良心的なもののアナーキスティックな突発的行動は仙三が始めてではない。かつて小学校教師の生活を描いた「幼き合唱」という小説があり、作者は同じような破局で、血は流さぬながら物語りを終っている。
「希望館」で作者が支持的に描いているタイプは、仙三の潔癖に反対し「良心で現在何かが解決出来るかい?」「たとえお経を読まされてもだ、それに平然と堪えて居られるような、そんな強靭な意志こそ必要なんだ。くよくよしないでさ、神経衰弱にならないでさ、――そしてやがての時代まで、健康に生きのびる――その落ちつきこそ今大いに必要なんじゃないか」と言って「希望館」で坊主の代理をも勤め、屑屋をしながら夜はギリシャ哲学の本を読んでいるという山村という男である。山村は仙三が江沼を打殺して人に引かれていく姿を見ながら「馬鹿な奴だ。だからそんな良心なんか捨てちまえと言ったのに……」と泣けて泣けて仕様がなかった。これが「希望館」の最後の言葉である。
読者は今日の現実の中で、抽象的な良心[#「良心」に傍点]だけで、何ものも解決されないことは知っている。何時、どのような時代にでも、左翼の運動が昂揚している最中でも、良心だけで解決された何ものも在ったことはなかった。良心はそれが良心であるのならば、些細なことにでもそれにふさわしい行動を生んだ。良心という言葉そのものが一定の規準と行動との関係に於て成立つ言葉である。「希望館」の作者によって言われている強靭な意志というのは、何故にお経を読まされること、阿諛《あゆ》を強いられる境遇に落ちつくことだけを内容とし現代の可能としているのであろう。強靭な意志というのは、日常の現実生活は全く受動的な条件で、最低のところまで引き下がって暮し、インテリゲンツィアの要求として夜は屑屋の車を片づけてギリシャ哲学の本を読んでいる、そのような実際生活上の分裂と薄弱さに対して鈍感になるということを意味するのであるならば、この言葉は作者によって新しい内容を附せられたことになる。山村が、屑屋は只のあり来りどおりの屑屋としてやっている。そのように、政治上の運動をやめて、小説をかいているこの作者は、小説書きとして小説を書いている。その職業の中でその職業に発展的な内容と方向とを附け加えようとする努力こそ、階級人の強靭な意志と称されるに足るものであると考える健全な読者は、この「希望館」の作者の今日に向っての態度に対して数々の疑問を抱くことを余儀なくされるのである。
プロレタリア文学で、所謂特等席の誤った観念が正され始め
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