を完成した。第二の長篇「嵐の子ら」が着手せられ始めた頃、彼は自分の病が現代の医学では如何ともし難いのを知って一日に十時間から十二時間も骨の折れる小説口述の仕事を続けた。その一部が書き上げられて印刷に付せられた昨年の冬、オストロフスキーの高潔な生涯は終ったのであった。
 一九一七年以来、ロシアは新しい社会の建設につれて過去の世界文学の歴史が持たなかった種類の文学作品とその作家とを世界に与えている。「赤色親衛隊」の作者、故フールマノフにしろ、ゴーリキイにしろ、前例のない作家の典型である。これらの人々は、ゴーリキイのように終始一貫作家としての活動で歴史の推進に参加し、それを反映すると同時に進む歴史の指導的な力に導かれて偉大な完成を遂げた芸術家、或はフールマノフのように銃声の間にも手ずれたノートを皮外套の下から取り出して、その印象を書きとどめずにはいられなかった程、初めから文学のすきな人々であった。これに反してオストロフスキーは、盲目になるまでは、生産の場面政治的の場面に活動して、特に文学が好きというのでもなかった。彼はかつて自分に手足があった時、その若々しい手足の働きで全うして来た自分の任務、その手足がなくなった後は、一対の輝かしい眼によって為し遂げて来たこと、その眼が奪われた後には、彼の強い頭脳と意志とによってなし得ること――「かつてあったことを文学的な言葉で若い時代へ伝えようとする」著作の仕事に従った。このような作家は歴史に今までなかった。オストロフスキーの文学に於ける地位は、その作品の芸術的な価値と共に全くここに重点を置いて、一個の新人間のタイプ、尊敬すべき生命の意味の理解者、実践者として観察され評価されるべきタイプなのである。
 大衆の自覚とわが声でものを言わんとする情熱が強くなればなるほど、大衆の持つ社会的・文化的地盤が現実生活の中で高められれば高められる程、大衆の創意性とその表現の形とは多様になって来るものである。それ故、われわれのところに於ても、かつて政治的な活動をした人、組合の仕事をした人々が或る時期にその活動力を文化的な面に向けて働くということは当然あってよいことである。大いにあってよいことなのであるけれども、それは決して条件なしではない。それらの人々が若し過去に於いて健全な活動分子であったのならば、運動が当面していた時期の種々な制約の中におのずからあったとはいえ、正当にそれを発展の歴史として摂取し、それを文学の中に生かし得る実践の価値を発揮することを、文学活動の面での責任条件とされている。直接に自身が経験したあれこれのことを芸術以前の形で記録されることを意味しているのではない。それらの人々が、大衆の中での活動で身につけて来ている階級の具体的な特徴についての把握、複雑な現実の縺《もつ》れの間に歴史の帰趨を見抜く力、その積極的な押し進めのためにあり得る人間の力についての洞察によって、今日の現実を観察して描いてゆく。その点でブルジョア作家に期待し得るものとはおのずから種類を異にした芸術がこれらの人々から期待されるのである。
 ところが、今日の実際に於て、そういう種類の作家たちから一般の読者が与えられている作品は、どういう性質のものであろうか。粗大な概括をすることを深く警戒するものであるが、今日までのところ、現れている作品は多く手法の上で何かの問題を持っていることを第二として、人間というものの捕え方に於て、先刻触れた二元性に陥っている傾向が見られる。かつて他の面で活動をしていた人々が、人間の「胸の琴線にふれる」文学の仕事に転じて来た時、センチメンタルになり、人間の観方、文学的表現等では、非常に抵抗少く過去の文学的常套に伏するのは何故であろうか。こういう経歴の作家に通有な文学に於ける面白さが、やはりブルジョア文学の一部の作家がいう面白さと類似したもの或は卑俗さに於て何ら質的に異ったものではなくなって現れて来ているというのは何故であろう。
 村山知義氏は一人の能才者である。彼は画を描き戯曲を書き、新たな劇運動にとって欠くべからざる演出者の一人である。この二三年来は小説も書かれる。興味あることは、村山氏がゴーリキイの「どん底」を昨年新たな認識で上演し好評を博したことはわれわれの記憶に新しい。その同じ一人の芸術家が今月は『文芸』の誌上で、「父たち母たち」のような作品を示してくれる時、「どん底」を観、その目でこの小説を読みする一人の読者は、全く相似ない両面の心の形に対して、どう判断するであろう。芸術を愛する程の者ならば、村山氏に、芸術以前の形で分裂のままあらわれているこの矛盾をこそ、人間的なものとして讚歎しなければならない義務を負うているのであろうか。
 小説というものには、小説としての美が要求される。これは明らかなことである。し
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