思うが、主観的なそういう人情や意企に拘らず、現実社会の厳然とした諸関係との連関で、その希望、努力、よい意図が自分として期待しない結果を生じたことを、一度も経験しなかった人がこの世にあるだろうか。作家は、その場合、どんな力で、我血の流れる負傷のあとを調べ、そのように人情以上の力がわが人情を破壊したいきさつを摂取し、その経験によってなお強く人生を愛しつつ社会の現実を描破し得るであろう。
人間生活の内奥に於て、感情と情熱とは同じもののように一応考えられているが、この二つのものは系統は一つであって、質が違う。感情、感動の領域に所謂《いわゆる》人情の従来の型における発露が多く繋ぎとめられている。芸術は人生に対する情熱によって創られ、情熱の諸相としての諸感情が活かされる。
心理学などの言葉で正確に表現出来ないが、私たちが女として人間として今日懸命に生きている情熱が、益々多様で益々複雑な感情をひっぱっている。長いものには巻かれろ、という諺は徳川時代の平民の境遇から発生した意味ふかい言葉である。一寸の虫にも五分の魂、という言葉も、等しくこれらの描写をもたぬ市民の心から産まれている。本来人情に沿うた文学は、このいずれの波によって、人情の領域と内容とを拡大し、豊富にして行くであろうか。[#地付き]〔一九三七年三月〕
底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
1980(昭和55)年1月20日初版発行
1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
1952(昭和27)年10月発行
初出:「婦人文芸」
1937(昭和12)年3月号
入力:柴田卓治
校正:米田進
2003年2月17日作成
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