られている。平林さんは作家として、人情と芸術とが一致する境地というものを求めておられる。「文学が永久に人情と背馳すべきものだという運命を負っている筈はないと思って」と。
平林さんは隠微な表現で書いておられるが、平林さんのような作家にでも、非人情という云い表わしは、人情と背馳するだけのものとして理解されるということに、私は反省も促されたし芸術上の興味も動かされた。
人情というものの内容やその理解、文学との連関は複雑な問題であり、特に現代の日本の作家は、周密にこれをとりあげ、見直さなければならないと思う。
小説を書き、或は詩を書き、評論を書くにさえ、何等かの意味でこの人生を愛す心持、書かんとする対象に対する愛、何か迸る熱いもの、それなしに書ける作家というものは凡そ存在しないであろう。作家の感受性は謂わば最も人情の機微にまで立ち入ったものであると思う。文学は、私の思うところでは、永久に人情に沿うたものである。しかも、その人情の波頭が一歩、或は数歩高まり、前進したところの形であり、また人情が一つの社会的桎梏の型に堕した時、それを身をもって破ろうとする人間の本来的感情であると思う。人情の内容は一種一様のものではない。人情の内容は、出来るだけ怠けて楽をしたいという人情から、死んでもそんな奴の恩恵にはあずかりたくないという気概の領域にまで及んでいる。私たちは、一人の女として、作家として、今日人情のどういう程あいのところを生きるか、また、社会の現実との交渉の間に、私たちの女としての生活、人間としての心は、実際にどのような種類の人情を目醒まされ、かき立てられているか。それを歴史の背景の前に描こうとする時、主観の中にとじこもり、或は一般的に暖いもの、妥協的なもの、話し合いで分るものという先入観で感じられている人情のほの明りの中に溺れては、その中での歌はうたえても、現実を力強く彫り上げることは不可能であろうと思われる。私たちは、毎日の胸に軽からざる日暮しの間で、人情を打ち破り、それを打ちひしぎ、強引に進んでゆく現実の姿をまざまざと観せられてはいないだろうか。私達の生活の間には、人情として実に忍びないが云々、と云って、人情を轢き過ぎてゆく現実の事実が頻々と起っているのではないだろか。極く身近な例として、私たちは人情として誰しも自分の生活の誤謬のないことを希い、そのために努力していると
前へ
次へ
全5ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
宮本 百合子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング