て考えていないかもしれないのである。
バックは、これまでの作品でずっと王龍一家を中心に一地方の農民の生活史を描いて来ているのだが、中国におけるヨーロッパ人と中国の民衆との接触、その錯綜は、昨今私たちの注目をひかずにいない。バックは、この面を、その着実な人間らしい目で何と見ているであろうか。どう芸術化すであろうか。私はバックの現実を観る目の力と幅、深さが益々鍛錬されて、いつかそういう題材を、阿蘭のような女や男の側から描いた作品の出ることを待望する。
日本が中国と地理的には全く近く、過去の文学的伝統の中に、あれ程深く中国文学の影響を受けながら、現代の中国の人民の生活をそれを描こうとして描いている作家は殆どないといってよい。婦人作家には全くないと云えるのではあるまいか。日本の社会的な事情は、バックのような中国におけるヨーロッパ第二世の婦人を生む条件も持たないこともあるが、一つには、明治以来日本が中国との関係においては、中国の一般人民としての日常生活の利害の上には立たず、常にその反対物としての権力関係にあったので、その微妙な反映が文学の面にもあらわれているのであろう。将来の日本の文学の豊富性のなかには、こういう未開発の分野での開花も眺めわたされる訳である。
バックの作風から拡る連想の一つとして、やや一般的な作家の態度についての話題であるが、この間、読売新聞の座談会で、数人の婦人作家があつまり、いろいろ話が弾んだ。終りに近く、作家の書く態度の一つとして、私は自分が現実に対して人情に堕せず、非人情に描いて行く力を欲しているという意味のことを云った。同座していられた宇野千代さんが、それに賛成され、本当にそうしたら亭主のことでも悪く書けていい、という意味のことを云われ、私はその時大変困った。辛うじて、自分をも見る目の意味であるというような短かい言葉を註した。場所がら、非人情という私の意味は人情を否定するのでなく、その人情の曲折を描くに、人情の埒内で暖まらず、そのとことん[#「とことん」に傍点]の現実にまで触れて行こうとするには、その人情なるものをも社会的な広さから作家として把握し得なければならないという気持であるというこまごましい説明は出来なかった。
二月号の『婦人文芸』を開いたら平林たい子さんの「日記断章」という文章があり、その中で私の云った非人情という言葉がとりあげ
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